2010年03月13日
『水の古道』南投県双龍村−2
【写真説明】もし双龍村を訪ねれば、双龍滝からの水を村に配水する日本時代に作られた構造物は、興味があればこのブログの読者にも丁寧に紹介されるはずである。左一枚目の写真は村に姿を表した滝の水とそれを運んできた水路。この水路を滝側に辿るとやがて二枚目の写真に見る落とし口に行き当たる。辿って来た水路より一段高い場所に設けられた水路から水を落とす構造である。三枚目は下段水路と直角に合わさる水路とその水路脇の階段、いずれも日本時代に作られたものが現役で健在である。右写真は、その階段を登り切りった部分から水路、及び階段を見降ろしたもの。
双龍村の東隣からこの滝に向かってモダンな赤塗りの吊橋が掛かっている。この吊橋はもともとは人と水を、滝が削り出した谷越しに運ぶ役割を担わせようとしていたようであるが、今は安全上の理由から、水だけを滝から村へ運んでいる。つまりこの吊橋は取水管を支えているのである。金氏は日本時代にも同じ方式で取配水していたと言っていたが、真偽の程は判らない。滝側の取水口にはコンクリート製の構造物があるが、それらが日本時代のものを実際ベースにしているのかどうかは私では判らない。地利村の隧道は山という凸の障害物を前にし水を渡す手段だが、こちらは、谷、つまり大気という凹の障害物を前にし水を渡す手段である。本当に日本時代に吊橋を使い水を渡していたとすれば、私がこれまで台湾で見た日本時代の遺産である水橋の吊橋版ということになる。
私がここまで縷々として書いてきたのは、この吊橋を紹介する為ではなく、この吊橋を伝ってきた水がどのような構造物を辿り水が村へ分配されるか?ということだ。地利村のトンネル、双龍村の配水構造を紹介する為に、私は「バクラス」のカテゴリーを加えたのだ。
前日から盛んに金氏の口から日本時代に作られた溝の話が出る。滝を見物して村に戻ってきて暫くきょろきょろしていたらこの溝はすぐに判った。今でも全く欠損のないコンクリート製の溝は見事な平坦性を保ちながら、滝の方に向かい檳榔の畑の中を今しがた見てきた滝の方向に向かい伸びている。その一条の溝を流れる水は当然清洌だ。
私はこの溝の先がどうなっているのか確認したかったので、同行者にはお構いなくどんどん畑の中を進んでいった。というのは単に一条の溝を以て「日本時代の構造物は本当に長持ち」だと感嘆するに足る材料かと訝っていたからだ。するとその溝の端は上から落ちてくる別なコンクリート製の溝と合わさっていた。これは正確に90度の角度で、合さる溝、つまり上から水を落としている溝の脇にはこれも丁寧にコンクリート製の階段が付けられている。ここまで辿った時にあっ!と思うぐらいの構造である。
これがつまり金氏その他が自慢していた「日本」だったのだ。階段は急で長い。散歩が嫌いな人はまず登ってみようという気にならないくらいの高度がある。その上は再び滝の方に向かい平坦な溝が延びていた。(終わり)
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