2010年03月06日
『水の古道』南投県双龍村−1
【写真説明】左写真は双龍国民小学校。校舎の壁に描かれているのはブヌン文字だそうだ。中央写真は双龍瀑布。現在の村名が先か、滝の名前が先か?滝の名前はその流れから来ているのだろうが、921地震で崩壊し随分滝相が変わったそうである。右写真はその滝から双龍村へ配水する為の水管を支える吊橋。同写真に写る山は水社山(標高2.059メートル)へ連なる峰々。水社山そのものの頂は未だに特定できずにいる。
双龍村は濁水渓を隔てて地利村の対岸にある。実際は地利村から見上げるような高台、山の斜面に部落は形成されている。濁水渓を渡りこの村を車で目指した時はその傾斜に驚いたものである。車はまるで急斜面を登るという塩梅でこの村へ至る。
対岸から見上げていた時分はまばらにしか住居が見えていなかったので、山肌に張り付いた寂しい集落だと考えていたのだが、実際集落の中に入るとなかなか堂々とした村なのに驚いた。加えて小学校の佇まいは小さい構えながらどっしりと落ち着いているので、この小村にしては場違いな感じがした。金雅恵氏に依る双龍村の紹介はまずこの双龍国民小学校内をぐるりと散策することから始まったのだが、どうもこの小学校はこの山間(やまあい)の誇りというのが感じ取れた。場違いなのではなく、そんな誇りが滲みでていたのだと気付いた。
校門から暫く続く児童の足形を採ったレンガ状の敷石、ブヌン五(六)族の嘗ての故里―濁水渓、丹大渓、郡大渓が刻んだ中央山脈西部の壮大、峻刻な地形をセメントで作り上げた地勢模型、日本時代に植えられたと謂う樟の大木、校舎の壁に摸されたブヌン文字...それら各々を丁寧に金氏より説明を受けた。
さて、ここで余談だが、地利、双龍、これに地利村の北部に位置する潭南の三村はブヌン五(六)族のうちカ社群の末裔で作った村だそうだ。地利は日本時代はタマロワン社と呼ばれていたのは既に書いた。双龍は、イシガン社で、それは現在この村に入るとそう漢音表記したものが見られる。泉史生(いづみ・ふみお)氏製作の「台湾戦前初等教育機関一覧現在名対照一覧」(昭和13年版)にも、この両社は列記されている。但し、私が最近購入した「臺灣地形圖新解」(上河文化、2007年3月2日出版、原図:大日本帝國陸地測量部、台灣總督府民政部警察本署)に依ると、双龍村は「デトウン社」と表記されている。この部分の地形図は「昭和二年測圖」「五萬分一地形蕃圖」の「集集」がベースになっており泉氏の昭和13年版と然程隔たりがないのに、泉氏の一覧に「デトウン社」が列記されていないのは何故か?これは追々調べていく宿題としておこう。又、この双龍村の起こりそのものは「関門古道」を書き起こすに当たり、あらためて書き足せるかもしれない。
尚、潭南は文字通り日月潭の南部に位置するのだが、日本時代は「蕨(わらび)社」と呼ばれていたと金氏が言ったが、上述の地形図に表記はない。更に、泉氏の一覧ではここら一帯戦前に蕃童教育所が置かれていたのはタマロワン社だけということになっているが、このブログのカテゴリー名である「バクラス」社にも教育所は置かれていたようだし、双龍国民小学校にも大ぶりの樟が存在している。昭和になってから(も?)原住民部落の移遷が激しかった証左かもしれない。
今は、「水の古道」の話である。
この双龍村の観光の目玉は双龍滝が一番なのかもしれない。観光客はこの滝へは必ず案内されているようだ。余り興味が湧かなかったが私も足を延ばした。台湾の滝はこれまで随分見てきた。台湾の地勢柄、どの滝も堂々としたものであるが、なにせ、取水の為の大小様々なパイプが突っ込まれ景観上は誠に惨めなのが常である。これが私が台湾の滝を積極的に眺めようとしない理由である。但し、それらのパイプを全部取っ払ってしまえとは言わない。大概は原住民の人々の飲料・灌漑用の取水手段であるからだ。つまり、こうである―観光客には景観を損ねている邪魔物にしか見えない台湾の滝に乱雑に差し込まれた現代工業用パイプという景観こそが、台湾の重要な人文(原住民族)景観の一部である、ということか?(続く)
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