2010年02月13日
『水の古道』南投県地利村−2
【写真説明】左写真は地利村の中に立つ日本時代開鑿のトンネル(水路)を指し示す道標。頭に戴くのはニワトリなのだが、地利村のブヌン語名は「タマロワン」、ニワトリの意だそうだ。昔々、地利村一帯は沼沢地で蚊が多くとても人の住める場所ではなかったのだが、或る日、ニワトリがやって来て蚊を全部食べてくれたという故事に基付くそうだ。左から二枚目写真はトンネル出口側。右から二枚目の写真はトンネルの出口側から入口側を望んだもの、右写真はトンネルが一番高くなっている部分の様子。
地利村を訪ねようと思い立ったらまずこのサイト「タマロワンのバクラス」をじっくり閲覧し、それから、「連絡方式」ボタンで連絡先を確認するのが、恐らくはこのブヌン族部落を訪ねて存分にその魅力を堪能できる方法である。その連絡先にある嘗て地利村の村長も務められた金雅恵(日本人なら女性の名前だが本人は男性)氏に二日に渡り案内いただいた。ご案内していただいたものの殆どは「関門古道」として独立したカテゴリーで紹介するつもりである。
地利村は日本時代の名残りが少なくとも二つある。一つは村の民家の壁に描かれたレリーフ。所謂村興しの為に集落の民家の壁に、神話、伝説を物語る様々なレリーフが作られており、観光客に対してそのすべてが説明されるはずである。その中に、日本兵、日本人婦人のレリーフが物語の一部として登場する。この物語の内容は大体理解した積りだが、日本人の役割が余り判然としないので、再度確認した上で紹介するだけの意味があれば後日紹介するつもりである。
もう一つは、上水道と灌漑用を兼ねた水路で、目玉は目分量で50メートル強かと思われる水路用隧道である。部落の街頭に「日据時代隧道」の道標が掛かる。金氏はすぐに懐中電灯を人数分用意してきたので、一応はこの部落にそんなものが残っているというのを観光客に説明するのだと思う。しかし実際彼の後ろについて少々前屈みになりながらこの真っ暗なトンネルを往復する人は少ないと思う。特に女性には不気味この上ない。予想したように多くの蝙蝠が飛び交う。
部落の西側にある濁水渓に流れ込む小さな川から水を引き込んでくるのにその水路がちょっとした山に遮られるのでトンネルを掘ったものだ。この手のトンネルは当時台湾に夥しく作られたはずだが、こうしてこのブヌン族の村ではわざわざ現代の、それも殆どが台湾人観光客に説明するところがおもしろい。台湾の原住民部落は多くが下界に移遷してきており衣食住すべてが現代に埋没している現実の中で、昔を語る縁となる破片は最早日本時代ぐらいまで遡るのが精々なのだとあらためて思い知らされる。そこで暮らす人々が感心するのは、そのような破片が単に破片としてではなく現役として存在しその恩恵を大いに被っていることである。(続く)
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「昔を語る縁」、狩猟と粟栽培を主な生活手段として来たブヌンの人々には“地域インフラ”に関してはどんな風に考えていたのでしょう。道路整備、架橋等は当然あったように思います。火薬を使うトンネル掘削は日本時代からというのは頷けますが。しかし、橋(主に吊橋)について『日本時代の吊橋』というのは聞きますが、日本時代以前に原住民が架けた吊橋というのは聞いた事がありません。何かご存知ですか?原住民族の人々の文化遺産と言うのは思想や何かをする方法等を主としていて形ある目に見えるものは少ないです。そんな中、見て簡単に分かってもらえるものとして日本時代のものなのでしょうね。