2010年01月16日
関山越嶺古道−12
【写真説明】南横は天龍ホテルを過ぎても新武呂渓右岸を遡り大きく迂回して左岸に移り高度を稼いでいき、やがて再び同ホテルより約三百メートル高い場所に出る。その南横脇に立つホテルの看板。この看板からそのままホテルへ降りる歩道が付いている。それが「古道」なのだが、日本人が開削した警備道ではなく、ブヌン族の連絡道だ。中央写真はその古道の様子。右写真は、古道途中から、天龍ホテル(同写真下)と旧プルプル社、現在の霧鹿を俯瞰したもの。同写真中央やや上に背の高い白い建物が見えるがその建物が集中している線を右側に辿ると小山が見える。そこが嘗て砲台が置かれていた場所。
[天龍古道]
橋の対岸にはそのまま直登する遊歩道が付けられており、天龍古道と呼ぶ人もある。南横は新武呂渓の右岸に建設されており、天龍温泉ホテルを過ぎた後もそのまま右岸沿いに大きく迂回して初めて左岸に移りそこから高度を稼ぎながらホテル対岸上部に出て更に利稲(リト社)、摩天(マテングル社)、大関山トンネルへと登り詰めていくのだが、この遊歩道は自動車道が迂回するのをショートカットし、いきなりホテル対岸上部に出る。その標高差は約300メートルあるので、この遊歩道を全部辿るのはかなり難儀だ。観光案内の中には、この遊歩道を関山越嶺古道と説明しているものもあるが、実際は嘗てのブヌン族の連絡道という方が正しい。その証拠に、吊橋を渡る途中で左岸左手を見ると渓谷に沿って平行に走る嘗ての警備道が残っているのがはっきり見て取れる。但し、古道は橋の袂で大きく崩壊しているのでこの段も残念ながら歩けない。 >(メルマガ「台湾の声」2009年5月9日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
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森林警察官で小説家のパイワン族のサキヌは林道と言っていましたが、階段がない時代の事を思うと林業の為の道とは思えず急登の近道ということですね。
古来どういう利用のされかたをしてきたか判りませんが、新しくは、横南建設時に資材を揚げたりするのに使われたかもしれません。要は、ブルブルからリトへのショートカットという性格が強そうです。(了)