【写真説明】右写真は産業道路沿いに残るブツンロク社旧住居。これは偶々草の陰から垣間見れたもので、道路沿いに並ぶ殆どが草莽に覆われてしまっている。中央写真は現在のブツンロク社、文楽村前景。左写真はパイワン族の主食里芋を燻製にしたもの。私自身は非常に気に入っており、酒のつまみには最高である。
[プツンロク社](現屏東県来義郷文楽)-2
文楽村に降りてきたのは昨日パイルス社を訪ねた時と同様、昼過ぎだったので、理事長も交え運転手さんの家で彼のガールフレンドも呼んでビール、軽い食事を取りながら歓談することになった。その際、運転手さんのお父さんか、彼の従兄弟のお父さんか忘れてしまったが、文楽村の古老を呼んでくれた。日本名は恒岡勇さん。日本語教育は小学校1年から6年まで受けた、普通は4年までで、頭のいい人が6年まで習う、文楽村の第二代目の村長を務めたとおっしゃっていた。日本語をもう五十年しゃべったことがないからと言っていたが、相変わらず(原住民の老人は皆という意味)きれいな日本語である。最初現れた時、大きな声で直立不動で何か言われた。その部分は私は聞き取れなかったが、私が緊張していたからだと思う。自身のことを「わたくし」と言う。全くこちらが恥ずかしい。大東亜戦争という単語が何回も飛び出す。日本が大東亜戦争に勝ったら勉強のできる人は大陸に行くのだと先生が言っていたと話してくれたが、これはどういう意味だろうか?いずれにしても、一体日本人は当時この人たちに何をしたのだろうか?又、彼らは当時どう感じその後の人生でどういう影響があったのだろうか?そんなことを理解するには私も含めもうそろそろ遅きに失したと思う日本人が出て来るに違いない。台湾における日本の最後の残り香でありやがてそれは完全に消失することを痛感する。(>(メルマガ「台湾の声」2008年10月18日掲載分の一部を改編)次回へ続く...)
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