【写真説明】左写真は或るボガリ社住居跡に今でも掛けられているもの。ボガリ社は日本人が台湾を引き上げる時に同時に低地に移遷したわけではない。戦後長い間この地で暮らしていたわけで、その当時は望嘉村二十五号という番地だったわけだ。今は望嘉村は遥か低地である。もう一つは戦後長らくカタカナが使用されていた証左である。中央写真はボガリ社の祭場の中の祭壇の一つ。旧教育所の下にその校庭と同じくらいの平坦地があり、そこが祭場だとの説明を受けた。そこに祭壇が八つぐらいあって、写真で見るものは一番完全なものだそうだ。左写真はその祭壇を囲む石壁の一面に刻まれたレリーフ、ボガリ社の守護神というべきものであろう。
[ボガリ社](現屏東県来義郷望嘉)-4
学校跡の直ぐ下も樹木の殆ど無い広場になっているので、最初はそこから集落が始まるのかと考えていたら、その広場は祭場だという。そこには祭祀用の祠が七箇所あるのだそうだが、草茫々で何処にあるのか全く見当が付かない。その中で一番大きい祠を覆っている草を切り払い祈祷。
この祠は石積で正面だけが開いた箱状のものであるが、その側面に石板が使われそこにパイワン族男性の顔の浮彫がある。相当古そうだ。理事長に依るとボガリ社のシンボルとのこと。來義(ライ社)の人間がこの浮彫を写真に撮り持ち帰り、今では同じシンボルを来義でも使っているが、もともとはボガリ社のものだ、つまり盗用されたとでも言いたいのだと思う。ボガリ社はここら一帯では神話が一番多いそうで、一つ話してくれたが理解出来なかった。(>(メルマガ「台湾の声」2008年10月18日掲載分の一部を改編)次回へ続く...)
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