2009年09月05日

パイワン族秘道−22:森丑之助「生蕃行脚」の世界-10

Kodou-411.JPG Kodou-412.JPG Kodou-413.JPG
【写真説明】左写真はボガリ蕃童教育所がその始まりだった国民小学校跡地に残る国旗掲揚台。中央写真はその教育所の校庭から旧ボガリ社越しに屏東市方面を望む。右写真は旧ボガリ社の住居跡。

[ボガリ社](現屏東県来義郷望嘉)-3
頭骨架への入口からボガリ社入口まではすぐだった。「蕃社を距りし一、二町の所」に頭骨架は作られるのが普通であるという森丑之助の記述そのままだ。

入口で道は二手に分かれており、一つは下りながら旧集落へ到るもの、もう一本はそのまま真っ直ぐに進むもので、コンクリートの遺構が散在している場所に出る。日本時代は日本人の宿舎だったそうだ。

そこを過ぎると広々とした実に気持ちの良い場所に出た。ボガリ教育所とその運動場(戦後もそのまま国民小学校)で国旗掲揚台が残っていた。旧社の最高所に当り、その先はパイルス社へ繋がる。広場の真ん中辺りに丁度都合よく樹木があり木陰で休憩。その後、集落の方へ下る。

集落の住居跡ははっきり判る形で割りとよく残存している。一つは集落の規模が大きかった為、薮に覆われるのを免れている住居跡が多い。幾つかの住居跡には柱に相当する石板に赤いペンキを用いカタカナで個人名と家族名(その住居の場所)が記されている。これは少なくとも屏東県一帯の旧社跡では共通に見られる。中にはわざわざ金属板とかプラスチックの板に、漢字とカタカナを併記して掛けてあるものもある。戦後も相当長い期間(そして一部地域では現在でも)カタカナが使われていたことが判る。(>(メルマガ「台湾の声」2008年10月18日掲載分の一部を改編)次回へ続く...)
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | パイワン族秘道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック