【写真説明】左写真は東京大学総合博物館所蔵「東アジア・ミクロネシア古写真資料画像データベース」の鳥居龍蔵台湾コレクションの中にあるボガリ社の頭骨架。7007番で「首棚」のキャプションしかないが、明らかに「ボカリ社」の頭骨架である。右二枚の写真は現在の同頭骨架の様子。7007番の写真と大体同じ位置ではないかと考えている。実際頭骨が残っているので頭骨架とな何だったのか?イメージし易いが、規模の大きかったボガリ社の頭骨架全体をイメージする為には、今や草叢が深過ぎる。それらを切り払い整備すれば非常な文化遺産となるのだが。
[ボガリ社](現屏東県来義郷望嘉)-2
これで合点がいったことが二つある。一つは、実は理事長はこの塚の存在を予め我々に話してくれたのであるが、私の耳が悪い為、「買う」(北京語発音はマイで三声)と「埋める」(同二声)を聞き違えており、日本人がそんな所に土地を買って何をしたのだろう、まあ、現地に行けば判るかと聞き流していたのである。出草を悪しき習慣と看做した台湾総督府はこの「悪習」の根絶に努めたのであるが、その過程で、それまで頭骨架に安置されていた頭骨を、塚を作り一括処分させたようである。処分という言い方は適切ではないかもしれない。それは「塚」と刻しているからである。塚とは梅原猛が彼の著作の中でしばしば言及しているように、古来、怨霊を封じ込める為のものだそうだ。台湾領有時代の日本人にとって原住民族の頭骨架は実に気味の悪いものであったことが察せられる。
二つ目は、クナナウ社跡にも高砂義勇隊「戦歿勇士之墓」とは別に日本様式の墓様なものが現存しているのは知ってはいたが、それが何なのか判らなかったのだが、これもボガリ社と同じ首塚であることが知れた。ということは、当時は各所に首塚が作られたはずだが、今現在どれくらい現存しているのかは判らない。
頭骨架と云っても単に石を積みその隙間に出草で刈った首級を安置していたものだが、森丑之助が「昔から苔に蒸せし石畳のうちにある古髑髏のみでも四、五百顆を数へ、従来見た所のパイワン族蕃社の頭骨架のうちでも最大なるもの」と呼んだボガリ社のそれは、森丑之助自身の撮影になる「蕃族図譜」所収の写真を見ると、高さはともかく、横の広がりが相当大きかったことが判る。
それらの写真のイメージと現在の様子は全く異なる。まず草に完全に覆われている為石積みそののが何処にあるのか皆目判らない。理事長に草を刈って貰ってやっと判ったが、それも元々の頭架の中のほんの一部である。戦後、牛が石積みを大きく壊したとも話していた。
今でもボガリ社の頭骨架には二つの頭骨が安置されている。もともとは四つ残っていたのだが、二つは消失したそうだ。日本時代は出草は禁止されそれまでの集めた頭骨は塚の中に埋めさせられはずなのに、今でも残っているというのは変な話だが、つまり戦後のものだそうだ。その経緯に関して質問するのは失礼であろうと思い聴かなかった。(>(メルマガ「台湾の声」2008年10月18日掲載分の一部を改編)次回へ続く...)
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