【写真説明】左写真はボガリ社入口近くで、旧警備道を離れ山側へ分け入り頭骨架を目指す様子。右写真二枚はその頭骨架の袂に日本時代に建てられた「ボンガリ頭骨塚」。まだはっきりと読める。森丑之助の「生蕃行脚」では「ボガリ」の表記だが、塚の文字は「ボンガリ」になっている。日本の墳墓様式なのだが、墓石の下は空洞になっている。まさか、そこに無造作に頭骨を投げ込んだとも思われない。納骨堂と考えた方が判り易い。台湾の原住民旧社に今現在このような頭骨塚が幾つ位現存しているのかは判らない。残っているとすれば大概はこのようなこじんまりとした墳墓様式のはずだ。実は最大の頭骨塚、というより文字通り見上げるように堂々とした納骨堂は実は宜蘭市街地中心に残る。それについては何時か紹介する機会があると思う。
[ボガリ社](現屏東県来義郷望嘉)-1
頭目の家に到るに産業道路を谷側へ入ったが、今度は山側へ更に別な産業道路を辿る。こちらも舗装されておらず、車のままその道に入り込んだ時には本当に車で走れるのかどうか驚き不安になる。道脇には何本もの取水用のパイプが走っているのでとにかく道はあるのだ。やがて、左手に大きな谷が見えてくる。尖刀頭渓谷で、渓谷の向かい側の山の稜線越しに南大武山が見えてきた。しばらく走るとちょっとした広場があり、そこから先も更に車で辿れそうだったが、途中危険な場所があるというので、車をそこに停め歩き出した。そこからボガリ社に到るまでは平坦な道で、四十分ぐらい、日本人のお陰だと理事長が言う。つまり、この産業道路は日本時代にプツンロク社とボガリ社を結ぶ理蕃道であったことが判る。原住民本来の連絡道は山の稜線伝いだったとも話してくれた。
本来の産業道路の終点は沢が流れ込んでおり、茄苳樹の大木がある。原住民には大事にされている樹だと誰かに聞いた。森丑之助も見ているはずだ。樹の袂には祭壇が設えられ樹中の空ろの中にも小さな祭壇がある。ここでも米酒で祈りを捧げ先を歩く。
小さな沢を三本程渡りやがて旧社に辿り着くだろうという所で、いきなり尤理事長が道脇の山側の薮を払い始めた。そこには倒木が転がしてあったのでそれが目印なのかもしれないが、外部の者には全く見当も付かない頭骨架への入口である。百メートルぐらい入り込まなければならないと話していたが実際はそんなに距離はなかった。
急な登りの先に二段の土手様のものを背にした平坦な場所があった。そこが頭骨架がある場所なのだが、何よりも驚いたことは、日本人の手になる「ボンガリ頭骨塚」、つまり日本様式の墳墓があったことである。(>(メルマガ「台湾の声」2008年10月18日掲載分の一部を改編)次回へ続く...)
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