【写真説明】左写真はブツンロク社頭目の家跡の草叢を切り開く様子。中央写真はその頭目の家屋前に設けられた露台の一部。右写真はブツンロク社跡で見掛けた女郎蜘蛛。台湾の女郎蜘蛛は日本産に比べたら細身だ.、獲物はクマゼミ様の蝉なので女郎蜘蛛は相当な大きさであることが判る…こう書いてはてなと考えた。私がイメージしている日本の女郎蜘蛛は本当に太めなのか?台湾の女郎蜘蛛に取り絡められた獲物は果たして本当にクマゼミの類なのか?前者は調べてすぐ判った。多分日本と台湾の女郎蜘蛛は体長に然程差はないかもしれない。私の頭にあった日本の女郎蜘蛛は実は黄金蜘蛛(コガネグモ)、鹿児島県加治木町の蜘蛛合戦のそれである。クマゼミの羽は日本産も台湾産も透明であるが、写真のものは黒々としている…
[プツンロク社](現屏東県来義郷文楽)
森丑之助はプツンロク社では「我々内地人の旅客を歓び迎へて呉れて、(中略)永く滞留して呉れとて非常なる優遇をした」と記述されているように随分愉快に過ごしたようだ。その理由として「該社は卑南-枋寮の隘路唯一の通路で、(中略)日本人としては全く珍しくない為である」と述べている。プツンロク社は丁度現在の文楽村の裏山上にある。余談だが、裏山とは日本語だ。これは自分の住居を基準にしてその後方に控える山という意味のはずだ。尤理事長はこの二日間我々を案内するのに盛んに「後山」という単語を使っている。ああ、後山というのは日本語の裏山を意味するのだなと気付く。台湾では後山とは通常は東海岸、特に花蓮方面を意味する。
文楽村を見下ろしながら舗装された産業道路を半時間弱ぐんぐん登るとやがて左側、すなわち谷側に広々とした畑が広がった場所に出る。一部は国民小学校(戦後のもの)跡地で、これが旧プツンロク社の始まりである。日本時代はこの旧社には教育所はなくボガリ社まで通っていたのはパイルス社と同じである。運転手さんはそこに畑を開いており、この後ボガリ社から降りてきた時にその畑の端に作られた小屋で休憩した。産業道路に沿い山側に石板屋の残骸が生い茂った藪の間に見える。この舗装道路から外れ草に覆われた別の産業道路を谷側に入ると頭目の住居跡に着く。着くといってもそこに案内板があるわけではなく、理事長が車を止めさせ、藪を切り払いながら入っていく。頭目の住居跡はそれだけでは判らないが、森丑之助が頭目の「司令塔の如きもの」と表現した長い露台が見事に残っている。その頭目の家の下に位置する住居跡が運転手さんの旧住居とのことであった。(>(メルマガ「台湾の声」2008年10月18日掲載分の一部を改編)次回へ続く…)
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