【写真説明】左写真は旧パイルス社入口に立つパイワン族男女の像。中央石碑上部に掛かる頭骨はイノシシ+アルファである。中央写真は復元された頭目の家。来訪者の宿泊が可能になっている。右写真は日本時代の衛生所跡に立つ案内板。
[パイルス社](白鷺社、現屏東県来義郷南和へ移遷)-2
最近立て直した石板屋が何棟か立っており、一棟は頭目の住居を復元したものだそうだ。庭には水道まで付けられており、涼亭もある。明らかに外部の宿泊者を意識したものだ。そこを抜けて少し上がると広い庭を持つ石板屋に出た。日本時代の衛生所跡に立てたもので、外には物干し台があり、家屋の中も生活出来る様になっている。まず米酒を用い家の中に設えた祭壇に向かい祈りを捧げる。祭壇の下には誰かが埋葬されているはずだ。庭先に設けられた露台で軽い食事を取る。見慣れないものを食べさせられたが、すぐにパイワン族の主食里芋を燻製したものであることが判った。
頭目の風貌は忘れ難い。日本時代に撮影された今に残る原住民の頭目の写真を見ていて何時も思うのだが、何故こうも堂々としてカメラの前に立てるのか、引き締まり整った顔立ち、優雅な物腰、私は失礼ながら食事時の彼の仕草、物腰をじっと観察していたというか、見惚れていた。今の日本では斯様な風貌にはなかなか出会えなくなったと勝手に思う。
その後この頭目に旧社の中を案内して貰った。衛生所脇には、緑地の金属板に白字で漢音表記とローマ字のパイワン語発音が併記された指導標が立つが、これが旧社内のあちこちに立つ。それだけではなく、白鷺橋を渡って以降旧社へ到る産業道路脇にも幾つも立っていた。例えば、頭骨架(首棚)には「漢名:頭[盧頁]架 母語:Puquluan」という具合に標示されている。旧社をぐるりと囲むようにコンクリート製の遊歩道が出来ている。私としては初めて見る原住民族の頭骨架は残っていたが殆ど原型を留めていない。頭骨架への標示板は遊歩道脇に立っておりそこから少しばかり薮を入り込むとあるのだが、案内人無しでは見付けられそうにない。駐在所跡、学校跡にも標示板が立っている。後者は戦後の国民小学校跡で、日本時代はここら一帯の子供達はボガリ社の教育所まで通っていたそうだ。(>(メルマガ「台湾の声」2008年10月15日掲載分の一部を改編)次回へ続く...)
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