2009年07月25日

パイワン族秘道−16:森丑之助「生蕃行脚」の世界-4

Kodou-394.JPG Kodou-393.JPG Kodou-395.JPG
【写真説明】左写真はチカタン社(老七佳)へ至る産業道路途中から力里渓を俯瞰したもの。写真奥が下流である。同写真中央部に白い橋柱が写るが白鷺吊橋。同写真右側、即ち力里渓右岸遥か山上にパイルス社がある。中央写真はその白鷺吊橋。今はこの吊橋の上下流に車が通行出来る橋があるので利用価値が無い。右写真はパイルス社(白鷺社)に至る産業道路から力里渓を俯瞰。写真手前が下流。つまり左写真と反対方向からの俯瞰である。写真中央に白鷺吊橋の橋柱が見えている。同写真手前の道路はチカタン社へ至る産業道路。チカタン社は写真奥の一番高く写る山の左側斜面にある。同写真左側山上がパイルス社である。

[パイルス社](白鷺社、現屏東県来義郷南和へ移遷)-1
今年(2008年)のカルマエギ台風が金曜日の昼前には台湾を抜けたが、台湾を襲う台風はその後ろに厚い雨雲を引きずる為、台風一過後も一両日は雨が残るのが常である。土曜日の朝、尤理事長と文楽国民小学校の前で待ち合わせ、土、日の日程を話し合った。話をしている間、雨が降ったり止んだりする。私の希望はボガリ社に入るのに天気のいい日を選ぶというものだったので、確実に天気の好転する日曜日にプツンロク社とボガリ社に入り、土曜日はパイルス社、時間が許せばタナシウ社(現来義郷丹林)まで入ろうということで話が纏まった。

やがて我々が乗る車が来た。ディーゼル・エンジン四駆の軽トラで、我々は荷台に渡された二枚の板の上に座る。新ためてこの手の車は馬力があること、これでなくては台湾の産業道路、林道は舗装してあろうがなかろうが、走れないこと、加えて容易に命を粗末にしてしまうことをこの二日間で痛感する。理事長は助手席、理事長も運転手さんも共に文楽村に住んでいる。

南和村から入り力里渓を暫く遡ると白鷺橋があり、ここがパイルス社に到る産業道路と現在チカタン社(老七佳、現春日郷七佳、「崑崙拗古道」参照)へ到る登山口に繋がる郷道との分岐である。白鷺橋の付近に小さな川が力里渓に流れ込んでいるが、その小さな川を右岸に渡りそのままぐんぐん高度を上げていく舗装されている産業道路がパイルス社に到る道であった。この道路には幾ら高度を上げてもずっと電柱が立っている。この道路と電柱は実はチカタン社へ辿る時、力里渓を隔てた対岸にずっと見えていたもので、それがパイルス社への道路であることは思い付かなかった。暫く登ると台風通過後の雨雲の影響で霧に見舞われ視界が殆ど利かなくなったのが残念であった。私が確かめたかったのは、パイルス社から果たしてリキリキ社が望めるかということであったが確認のしようがなかった。途中から一台のバイクが上がってきて理事長と一緒に台風の影響で道路を塞いでいる樹木、石を除きながら進む。実はこのバイクの御仁はパイルス社の頭目であった。理事長はもともとはボガリ社の出身なので、異なる部落に入るのに仁義を切ったわけである。とうとう産業道路の舗装も切れず電柱も切れぬ間にパイルス社に着いた。標高800メートルぐらいとのことなので、力里渓谷からの高度感は相当なもので、森丑之助がさらりと「渓流一つ隔ててリキリキ社と対峙して居る」とはとてもイメージ出来ない。(>(メルマガ「台湾の声」2008年10月15日掲載分の一部を改編)次回へ続く...)
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | パイワン族秘道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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