【写真説明】「生蕃行脚」の中で多くの記事が割かれているのは、リキリキ社、ボガリ社、クナナウ社の三社。東京大学総合博物館所蔵「東アジア・ミクロネシア古写真資料画像データベース」の鳥居龍蔵台湾コレクションの中で、これらの社名がキャプションに入った写真は各々、3枚、5枚(但し、「ボカリ社」)、2枚しかないが、これらの写真番号の前後を丁寧に見ていくと、もっと多く撮影されているのが判る。但し、上記の合計10枚は撮影年が入っていない。「生蕃行脚」の地を森丑之助が鳥居龍蔵と訪ね歩いたのは1900年、上記コレクションを1900年で検索すると22枚が出て来るが、「生蕃行脚」の地関連は僅かに内社(ライ社)のものが一枚あるのみである。上掲写真は同コレクションからの転載、左から順に、リキリキ社、ボガリ社、クナナウ社での撮影。これら三社は本ブログでもかなりの記事で触れてきたので、興味がある方は、左側メニュー、トップの「記事検索」を利用して欲しい。
[森丑之助と「生蕃行脚」]-1
パイワン族の旧社の数は非常に多くこれまで私が訪ねたことがあるのをそのまま漫然と羅列してもいたずらに冗長になってしまう。そこで今回は日本の台湾領有時代、パイワン族が実際どういう生活をしていたかを知るに格好の材料となる森丑之助の「生蕃行脚」に拠りながら紹介することにした。
「生蕃行脚」は森丑之助が1900年(明治33年)に台湾南部に居住するパイワン族の集落を鳥居龍蔵と訪ね歩いた時の回想録だが、「生蕃行脚」の名は、楊南郡(註1)が同回想録も含め森丑之助の台湾原住民族に関する著述を編集・中国語へ翻訳した書(註2)を2000年に出版し、その本に「生蕃行脚」の名を冠したことから寧ろ台湾で知られるようになった。楊氏自身の希望で2005年になり日本で出版されたのが「幻の文化人類学者森丑之助-台湾原住民の研究に捧げた生涯」(笠原政治・宮岡真央子・宮崎聖子編訳、風響社出版)で、その中にも「生蕃行脚」が所収されている。
「生蕃行脚」の中で描かれているパイワン族集落(註3)の踏査コースは、現在の屏東県春日郷から入り、来義郷を経て泰武郷へ南から北へ向けて歩かれている。その回想記の中に聊かでも集落の紹介があるのは、リキリキ社(現春日郷力里)、パイルス社(同南和に移遷、現代台湾漢音表記は白鷺)、プツンロク社(現来義郷文楽)、ボガリ社(同望嘉)、クナナウ社(同古楼)、内社(ライ社、同来義)、プンティ社(現泰武郷佳興)、カピヤンガン社(同佳平)、クワルス社(同泰武)だが、それらの中で森丑之助が多くのページを割いて紹介している集落は、リキリキ社、ボガリ社、クナナウ社の三社で、それら三社の当時の集落規模が大きかったことに依る。(>(メルマガ「台湾の声」2008年10月15日掲載分の一部を改編)次回へ続く...)
註1:国家公園管理処の委託研究事業である楊南郡氏に依る「八通関古道西段・東段調査研究報告」と「合歓山越嶺古道調査報告」は台湾古道研究の金字塔であり、既に戦後七十年を超えたことを考え合わせると、これらを超える研究が今後出て来ることは有り得ない。これら日本人に拠り開鑿された古道も今は異なる国家となっている為、最早現代の日本人に同程度の踏査・研究は望むべくもなく、それだけに日本統治時代に光を当てた同氏の功績は大きく、又貴重である。
註2:「森丑之助的台湾探検 生蕃行脚」森丑之助原著、楊南郡訳注、遠流出版公司、2000年1月1日初版第一刷
註3:本投稿の中のパイワン族旧社のカタカナ表記はすべて森丑之助の「生蕃行脚」中の表記に従った。
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