【写真説明】茄苳樹の大木、鳥居龍蔵も森丑之助も必ず見ている。ブツンロク社(現屏東県来義郷文楽)とボガリ社(現屏東県来義郷望嘉)を結んでいた当時の理蕃道は今は産業道路になっているのだが、この大木の辺りまで以前は車で乗り入れていた。今は入れない、途中が崩壊している為だ。右写真も同地点、当時の森丑之助一向も同じような井手達だったかもしれない。
[パイワン族秘道]
日本の台湾領有時代は原住民の村落は何々「社」と呼ばれており、往時著名な人類学者によりその生活が著述、映像という形で記録され今に残されている。当時の文化、生活形態はとうに消失し、戦後は殆どが現代生活に便利な低い土地に移遷してきており、先祖伝来の集落はその際遺棄され、今は熱帯の草木、樹木に覆われているのが普通である。
現在の台湾では、これらの旧社名は、現代の集落名の前に「旧」とか「老」を冠して区別している。実際それらの旧集落跡を訪ねると、もし運が良ければパイワン族の伝統的な家屋様式である石板屋の壁の石積みの一部と住居内に残る柱の役割を果たす石板、住居前に敷かれたこれも石板の回廊等が見れるのだが、これは誰かが定期的に訪れ薮を払う等の何らかの管理がなされている場合。大概の場合は旺盛で深い緑の底に沈んでいる。
ここで云う秘道とは嘗ては原住民の生活道、旧社間の連絡道、それらが日本時代には理蕃道へ変遷していったものが中心で、現在でも原住民、並びにハイカー等によって歩かれている道という意味である。移遷後の集落と先祖伝来の地である旧社を結ぶ道は、旧社付近に耕地を残しているのが普通であるし、同時に現在でも貴重な狩猟道でもある為、確実に確保されている。
問題は旧社と移遷後の現在の集落との距離である。単に山から降りて麓に移動しただけというケースは非常に少なく、その間には山や谷が横切り、途方もない距離があるのが普通だ。もしその間を産業道路なり林道で繋がっていない場合はその当方もない距離を歩くか、仮令自動車通行が可能な道路で繋がっていても普通の人には何とも心もとない危険な運転になるのが常である。その意味ではこれら旧社と現集落間を結ぶ連絡道も秘道と呼る。(>(メルマガ「台湾の声」2008年10月15日掲載分の一部を改編)次回へ続く...)
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