2009年06月27日

『水の古道』二峰[土川](4)

Kodou-384.JPG
【写真説明】來義国民小学校の図書館に仮安置されている鳥居信平の銅像。今週火曜日6月23日、T博士の撮影である。

「鳥居信平」を検索ワードとして私の「台湾古道」へのブログへアクセスしていただく方が増えてきた。それで、今年上半期の最後の記事は鳥居信平に関する記事にすることにした。

今年になり鳥居信平の銅像の序幕式が挙行されたのは知っていた。それでその銅像なるものを一度見ておきたいものだと考えていた。私自身は現在は仕事の関係で簡単には出掛けていけないので、G博士とT博士に、時間を見付けて、『水の古道』二峰[土川](1)で紹介した公園に行って確認してきて欲しいと頼んでおいた。そこが銅像の置き場所として一番相応しいはずだと勝手に想像したからだ。実際行って貰ったが見付からなかったとの連絡を受けた。

そこで、来義村の洪村長ならその辺りの事情に詳しいと思い、村長さんに電話を入れて確認して貰ったところ、銅像の設置場所が決まらず、公園の真向かいにある小学校で保管してあるとこのことだった。

それで、T博士に再度、村長さんの許可を取りその小学校を訪ね、銅像を見て来て欲しいと頼んだ。実際T博士が現地に足を運んだのは、今週の火曜日6月23日である。今回の写真はその時の撮影である。

当日私自身の帰宅後、偶然にも、「台湾の声」で【良書紹介】として「平野久美子『水の奇跡を呼んだ男−日本初の環境型ダムを台湾につくった鳥居信平』」が配信されていた。

その偶然には特に驚かなかったが、驚いたのはT博士の報告である。銅像の置き場所へ案内してくれたのは村長さん自身である。彼が小学校に入ると彼を目にした児童が皆口々に「村長さん、こんにちは」と挨拶したそうである。その光景に驚いたT博士曰く、「高雄の街の学校ではとてもお目にかかれそうにない。」 児童の大半がパイワン族の師弟のはずである。村長さん自身はライ社の貴族のはずだ。

銅像設置場所がいまだに決まらない本当の理由は、銅像設置の為の基部建設の資金不足のようである。村長さんの頭にあるのは日本円で40万円ぐらいだとのことだったそうだ。(終わり)


[追記]銅像下のプレート(中国語)の日本語訳(拙訳):
鳥居信平(トリイ ノブヘイ) (日本人 1883〜1946)

鳥居信平は日本静岡県周知郡山梨町の人、東京帝国大学農業土木科卒業。1914年(大正3年)屏東台湾製糖株式会社に奉職。パイワン族原住民の居住地であった林辺渓上流域に入り込み踏査、水源となる同流域の水流を記録、全長328メートルに及ぶ二峰[土川]「地下堤堰取水システム」を完成させた。伏流水を集めることに拠り、雨季の度毎に繰り返される氾濫、災害の発生を抑え、且つ乾季時の水源枯渇による水不足を改善した。水路の総延長は3,436メートル、該システムの完成により、雨季には一日25万トン、乾季でも7万トンの水量を確保できるようになり、一年を通じ灌漑が可能になり、三千ヘクタールに及ぶ台湾製糖のサトウキビ畑を潤した。

「地下堤堰取水システム」は台湾の水利開発史上、以下のような画期的特徴を持っている:水源となる河川の水流に影響を及ぼさない水源開発方式であること;生態系を壊さないこと;取水量が大きいこと;灌漑に供給される水が清潔であること;開発期間が短く、工事費を節約出来ること;これらのすべてが、今日使われている灌漑システムはかくあるべしというものに繋がる。二峰[土川]灌漑システムは、台糖の管轄下の万隆、泗林、林後、南岸、新暦等の農場を潤し、台湾製糖業の価値を高め、貢献多大である。

銅像製作者 奇美集団創業者 許文龍

ラベル:台湾 台湾古道
posted by 玉山 at 08:29| 台北 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 『水の古道』二峰[土川] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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