2009年06月13日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−24

Kodou-381.JPG Kodou-382.JPG Kodou-379.JPG
【写真説明】嘗ての宜蘭庁長官舎で今は「宜蘭設治記念館」として一般に開放されている。何故いきなり恒春から宜蘭に飛んで来たかは、本文を参照。日本時代の木造建築物を修復・復元し、歴史遺産・文化遺産として保存している例は台湾の各地で見られるが、ここ宜蘭市中心に位置する宜蘭設治記念館とその周辺の整備状況は恐らく台湾で随一であると思う。有料だが、わざわざ中に入らずとも、当時のままの庁長官舎を囲む石塀が低い為、中の様子がよく見て取れる。これら二枚は塀の外から撮影した。右写真は、その石塀の模様。清朝営盤に見られる典型的な「人」文字型の石組みであるのだが、何故それが台湾総督府下の日本人顕官の宿舎の壁に使われているかは判らない。同地の清朝役人の邸宅敷地を襲って庁長舎にしたのかもしれない。

[宜蘭市−1]
恒春卑南古道(阿朗伊古道)−23」で、西郷隆盛、西郷従道に触れたので、では、西郷隆盛の庶長子、西郷菊次郎にも触れておこうと思い立ったからである。「恒春卑南古道(阿朗伊古道)−8」で以下のように書いた:

「余談だが、『西郷都督遺績紀念碑』、『明治七年討蕃軍本営地』、更に、宜蘭市宜蘭渓河畔に立つ『西郷庁憲徳政碑』(西郷菊次郎)を加え、鹿児島市出身である私は勝手に台湾西郷家三点セットと呼んでいる。」

「西郷庁憲徳政碑」はよく知られるようになった。私も見に行ったことがある。ここに写真を掲載してもいいのだが、日本のネット上でもかなり紹介されているので控えた。控えたもう一つの理由は、その漢文の碑文に全く歯が立たないからである。並大抵の漢文力では多分読めないと思う。いずれにしても、この碑を実際見たと云っても、西郷菊次郎が嘗て宜蘭庁長であったことまでは当時思い至らなかっただけだ。これは、初めて「宜蘭設治記念館」を訪ねた時も同じであった。

「西郷庁憲徳政碑」と「西郷堤」が台湾人、日本人にもよく知られるようになったのは、恐らく2000年以降で、これは拓殖大学の啓蒙活動の由だろうと判ったのは、「西郷菊次郎と台湾−父西郷隆盛の『敬天愛人』を活かした生涯」(佐野幸夫著、南日本新聞開発センター、2002年11月1日初版)に目を通してからである。同書が出版された際は、台湾独立派の日本人の間では話題になったのかもしれないが、記憶に無い。尤も、この本を読んでみようと思い立った実際の動機は、今年になり西郷菊次郎の肖像写真なら残っているかもしれないと思い、ネットで検索していたら、同書に行き当たったからだ。

佐野氏に拠ると、西郷菊次郎が宜蘭庁長に任命されたのは明治三十年(1897年)五月、退官したのが同三十五年十一月(1902年)、それ以前、台北県支庁長も歴任しているので、台湾滞在は足掛け八年、当時の台湾総督の平均的な在任期間より遥かに長いことになる。その後、帰国し、京都市長を歴任する。(続く)
posted by 玉山 at 00:00| 台北 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 恒春卑南古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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