2009年05月30日
蘇花古道−17
【写真説明】左写真は瑞穂温泉入口に立つ看板。「日本時代の警察招待所」というキャッチでお客を呼べるところが台湾の良さである。で、その警察招待所はいまだに健在である。床下の構造を見れば判る。それが真ん中の写真。右写真は花蓮県の紅葉温泉のお馴染みの入り口。色々な写真を見たが、どんどんけばけばしくなっていく。
[瑞穂][紅葉]
「台湾の声」で紹介した蘇花古道は、蘇澳から新城までで完了させてしまったが、羅大春提督の後山北路、即ち、オリジナルの蘇花古道の開鑿は花蓮を越えて更に南下、現在の花蓮県瑞穂郷瑞穂、当時水尾と呼ばれていた秀姑巒渓河口付近まで続く。それで、日本時代から温泉郷であった瑞穂周辺を少々紹介して蘇花古道シリーズを一旦終えたい。
後山北路の蘇澳−花蓮港の開鑿延長が約115キロ、花蓮港-水尾の開鑿延長が約60キロ、合計175キロが後山北路の総延長である。現在の花蓮港は文字通り、港湾、美崙渓河口北側に位置するが、後山北路では、それよりやや南側、花蓮渓と木瓜渓が合わさり太平洋に注ぐ河口部で、当時は大きな河川の出口を「港」とも称していたようだ。
呉光亮提督の指揮下、南投県竹山を起点に中央山脈八通関越えで花蓮県玉里鎮玉里まで開鑿してきた中部開山撫蕃道は、そのまま北上、水尾で合わさる。但し、花蓮港−水尾は花蓮渓沿いにそのまま南下、玉里−水尾間は秀姑巒渓沿いに北上、どちらも今で云う中央山脈と海岸山脈の鞍部を形成する平野部なので、真に開鑿とは言い難いと言われる。これも後山北路の開鑿地点を通常蘇澳−花蓮港間とする一つの根拠であろう。
東京在住のO氏から提供いただいた「瑞穂郷志大事記」に拠ると、水尾が瑞穂と改称されたのは大正6年(1917年)である。花蓮港-玉里間、つまり、開山撫蕃道が開鑿されたコースに沿った平野部には日本時代は多くの日本人が入植し、所謂開拓村を形成した。私の手元の地図でざっと拾ってみた。()内は現在の地名である。吉野(吉安)、賀田(志学)、寿(寿豊)、豊田(豊田)、林田(林栄)、万里橋(長橋)、大和(大富)、瑞穂(瑞穂)、三笠(三民)、末広(大禹)の村の名前が見える。
従って、当時開鑿自体にはそれ程苦労はしなかったのかもしれないが、原住民との抗争にはほとほと手を焼いたようだ。それも原因の一つとなり、欽差大臣沈葆驍フ建議に始まる台湾北部、中部、南部の各々開鑿された開山撫蕃道は開通後数年を経ずして放棄されるという憂き目に遭う。日本の台湾統治が始まるのはそれから十五年程先の話だ。
さて、原住民の襲撃に悩まされたのは何も清軍だけではなかった。前出の「瑞穂郷志大事記」に拠ると、花蓮港−台東間の鉄道建設の国会批准が下りたのが、明治40年(1907年)、花蓮港から工事が開始されたのがその三年後、花蓮港−玉里間が完工するのが、大正6年(1917年)。この間、原住民との抗争が散見される。全線173キロの完工は昭和元年(1926年)だそうだ。
瑞穂温泉もその奥の紅葉温泉も休日は賑わう。紅葉村は日本時代はエフナンと呼んでいた場所である。余りの賑やかさに私はたじろいで、どちらでも入浴する気にはならなかった。それで写真だけを撮ってきた。因みに、当時、瑞穂駅と温泉郷の間は軽便鉄道で結ばれていた。往時から湯治客で賑わっていた証左だろう。(終わり)
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