2009年05月16日
蘇花古道−15
【写真説明】新城にはいまだに日本時代建築の民家が目立つ。日本人観光客の目を楽しませてくれるかもしれないが、結局は経済的な賑わいは南隣の花蓮市の方へ集中してしまい、取り残されたからと言えるかもしれない。左写真の写真屋さんは日本時代から代々写真屋を営んできたのではないかと勘ぐらせてしまうぐらいに古い。今のデジタル化の大波もここまでは届きそうもない。
[新城-1]
崇徳を過ぎると、以前は蘇花公路は、タロコ国家公園管理処、即ち日本人の観光客にもお馴染みのタロコ国立公園入口の赤塗りの門がある場所までタッキリ渓(現在表記:立霧渓)を溯ってから対岸へ渡っていたが、「蘇花古道−1」で述べた通り、現在は北廻鉄路と平行して一気にタッキリ渓を渡る。渡り切った所が、新城だ。大濁水−新城間は約30キロ、羅提督が北から後山北路を開鑿してきてこの川(清代は得其黎渓)を渡り最初に城(砦)を築いたことに由来するそうだ。
日本時代は佐久間総督下のタロコ蕃征討後に、同地に花蓮港庁の新城支庁を設置するが、その後、佐久間総督の号に因み、研海支庁と改名される。現在の北廻鉄路新城駅の東側に当る。この「研海」は当地にはもう地名として残されていないが、別の場所に一箇所だけ残っている。タロコ国家公園の領域内に「研海」と名付けられた林道があり、佐久間山(標高2,809メートル)、タロコ山(標高3,283メートル、台湾百岳56号)等への登山道と利用されているのがそれだ。
新城の旧市街地にはもともと日本人が区画した街らしく日本時代の建造物が多く残る。台湾の他の神社遺構には見られない丁寧な解説と保護が為されている新城天主教会(旧新城神社)は読者の中にも実際足を運ばれた方がいらっしゃるかと思う。
「新城老街」と呼ばれている場所は昔懐かしい日本の商店街の趣がある。(メルマガ「台湾の声」2007年6月16日掲載分の一部を改編:次回へ続く)
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