2009年05月02日

蘇花古道−13

Kodou-358.JPG Kodou-359.JPG Kodou-360.JPG
【写真説明】左写真の右側に写るトンネルは大清水トンネル、蘇花公路・和仁休憩所方面から南側を望んだもの。清水大断崖核心部北側の様子。但し、天気は良くないし、私の撮影の腕では誠にこの大断崖に対して申し訳ない。中央写真は蘇花公路・匯徳休憩所を北廻鉄路まで降りてみたものである。小清水と清朝開鑿時から呼ばれていた場所で、日本時代は清水駐在所が置かれていた。同写真右側が清水トンネル、左側が新清水トンネルで、駐在所は清水トンネル脇に置かれていたのだが、今は右写真のような有様だ。途中まで薮を漕いでみたが途中で諦めた。

[清水断崖−1]
さて、当時の日本人はこれをどう発音していたのだろうか?「きよみず」「しみず」「せんすい」?又、「清水」の由来は?鳥も通わぬ断崖絶壁への道路開鑿と聞けば、日本人ならすぐに「清水(きよみず)の舞台から飛び降りる」という言い回しを想起するだろうし、この地の清水の名付け親は日本人だという台湾側の記事を見たことがあるが、実際は羅提督の後山北路開鑿の時点では既に大清水、小清水の地名が用いられていたから、日本人が付けたものではないことは明らかだ。

現在の公路上では清水断崖は、和仁(カナガン)−崇徳(日本時代:タッキリ)間約20キロだと云われている。この間に交通部では、和仁、匯徳、崇徳の各々の名前を冠した三箇所の休息所・遊歩道を設置している。それぞれ特徴を出せるように設計してあり、清水断崖全体を一望、断崖の様子、規模、道路開鑿の実際等を同時に観察、感得するには崇徳、現在は廃棄された自動車を実際歩いてみたければ匯徳、海岸に降りてみたければ和仁という説明を聞いたことがるが、各人の好み次第だと思う。

休息所・遊歩道の規模は匯徳が最も大きく、又、この場所が日本時代、清水と呼ばれていた場所で駐在所が置かれていた場所だ。その駐在所が置かれていた場所は、現在の休憩所より遥か下方、北廻鉄路の清水トンネルの出口付近、その地は清代の営盤を襲って立てられたとのことで実際入り込んでみたが、藪が深くて皆目見当が付かない。(メルマガ「台湾の声」2007年6月16日掲載分の一部を改編:次回へ続く)
ラベル:台湾 台湾古道
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 蘇花古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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