【写真説明】私は毎週土曜日に本ブログ記事をアップすることにしているが、今回は特別記事である。前回記事「恒春卑南古道(阿朗伊古道)−22」で、「征蕃役戦死病歿者忠魂碑」は、その一部が現在同碑の台座と「西郷都督遺績紀念碑」が並び立つ虱母山(?)頂上の何処かに埋まっているはずだと書いた。昨日(3月29日)、G博士、T博士がそれを「発見」したとのニュースを受けたので、この両博士の快挙に敬意を表する意味で、早速T博士になる写真をアップすることにした。私自身前回の記事で書いたように七年程前から探していたものである。
頂上を南北に長い長方形の平地とすると南東の角付近、四重渓の温泉街を望み足下には墓地が広がる場所である。左写真は、碑が埋まっていた場所をその碑が嘗て鎮座していた台座越しに望んだもの。歩道突き当たり、カーブする辺りの脇低木群の中である。奥に写る家並みは四重渓温泉。撮影者の背中側が石門古戦場駐車場からの階段側である。残りの二枚の写真は、現在の埋没状況。「忠魂碑」の「碑」の部分だけの塊で、その上の部分は存在しないことが判ると思う。前回掲載の写真と比べると「碑」の文字であることが更に明白だ。つまり遺棄される際、分割され、写真で見る部分だけが今の場所に埋もれているわけである。残りの部分は周りを更に丹念に探せば見付かるかもしれないし、或いは別な所に運ばれたかもしれない。「発見」と書いたが両博士が第一号の発見者ではない。知っている人は知っていたのだが、広く知られる程には公にされていなかったというのが事実である。但し、写真でも想像が付くと思うが、何等かの目印でも立てておかないとすぐに在り処が判らなくなってしまう埋没状況である。因みに、前回記事でも書いたが、この一部分だけ現存し埋没している忠魂碑は、前回記事掲載の忠魂碑とは別物である。埋没しているものは元々山上に鎮座していたものである。
私がここで想うのは、当時参議筆頭であった西郷隆盛が台湾出兵に同意していた証拠としてしばしば引き合いに出される、以下の明治6年7月21日付けの実弟西郷従道宛の書簡である。
「先日は御来訪の由に候処、折悪敷失敬相働き申し候。昨日は珍物品々御恵投、厚く御礼申し入れ候。扨[さて]台湾の模様少々相分かり候由、就いては兵隊御繰り出し相成り候儀に候わば、鹿児島の兵一大隊召集いたし、別府[晋介]氏引き受けたきとの事に候間、至極宜しかるべきと相考え候に付、御方[従道]迄御申し入れ置き成らるべき旨申し置き候処、野生[隆盛]まだ副島[種臣]氏罷り帰らず候わでは、御決定の儀も出来難き事に候え共、前広申し置かず候わでは、定めて諸方より願い立て候わんと相考え候に付き、宜敷御含み下さるべく候。此の旨略儀ながら書中を以て御意を得候。」
この三ヶ月後、西郷隆盛自身は所謂「征韓論」を葬られ下野することになるが、内憂の解決を最優先課題とし外患への対処を押しやったはずの当時の中央政府であったにも拘らず、翌年5月には台湾出兵が敢行される。蕃地事務都督として台湾出兵の指揮を執るのは従道である。近代台湾はこのようにして回転していくわけである。そらから百四十年...尚、書簡中の別府晋介は、西郷隆盛の介錯を行う。(了)
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左写真は『恒春卑南古道(阿朗伊古道)−7』の写真の「澄清海宇還我河山」の碑を左肩にして撮影されたものですね?という事はすぐ近くにあったということですね。今回は冬枯れで草が少なかったという事でしょうか。