2009年04月11日
蘇花古道−10
【写真説明】サヨンの碑と鐘については読書の皆さんはよくご存知かと想像するので書かない。この碑が元々何処でどのように「発見」されかもよく知られている。今現在は、掲載写真のように現在のブター社を見下ろす位置に立っているが、以前は、筆者の撮影地点より更に後方の道脇に立ててあったのを移動させてきている。理由は判らない。「乙女」と「遭難」の文字だけがやっと読める。旧ブター社は現在の地より南澳渓を西に遡ること二十キロは優にある。今でも地元の方に案内を頼めば入れるはずである。事実、村の古老と思しき方にそう説明を受けた。
[武塔](ブター社)
南澳渓を渡り数キロ進むと武塔で、北廻鉄路南澳駅の南隣の駅武塔駅がある。南澳渓は北上するものと西上するものとが平野部で合流している。どちらの川沿いも上流は中央山脈の北端に源を発し、理蕃道路が敷設されていた。
特に、西側を溯る南澳渓の上流付近は、河口を蘇花公路上約25キロ北側に持つ大濁水渓(現在は和平渓)の上流と合わさり、当時南澳蕃と総称されていたタイヤル族の村落が集中してた地域である。
この南澳渓を西側に溯り中央山脈を越えて現在の省道7号(甲)線(宜蘭県楼蘭と台中県梨山を結ぶ:この線は中央山脈と雪山山脈の鞍部、境界線)まで降りる理蕃道は、現在タイヤル族の一村落に因み「比亜毫(ビヤハウ)古道」と呼ばれる国家歩道に指定されているが、実際踏破する人がいるかどうかは筆者自身大いに疑問だ。
武塔もそのような村落の一つ、ブター社が河口付近に移遷してきたもので、ビヤハウ古道の入口になる。武塔には既に多くの読者に馴染みの深い「サヨンの鐘」記念公園がドライブインと併設された形で公路脇に、村の入口にある派出所脇を過ぎて暫く村の中を進むと、村を見下ろす形で立っている「(愛国)乙女(サヨン)遭難之(碑?)」[筆者注:()は既に削り取られている部分、?は筆者の想像]がある。(メルマガ「台湾の声」2007年6月15日掲載分の一部を改編:次回へ続く)
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