2009年03月28日
蘇花古道−8
【写真説明】今は朝陽という地名になっている南澳渓河口には小さな港が付設されている。日本時代は「浪速」(なにわ)という地名だった。朝陽とは誠に響きの良い地名であるが、その由来は判らない。この「なにわ」は今は「娜娘」という漢音訳で残る。それが左写真である。中央写真はその港の風景。右写真は、朝陽の小さな小さな繁華街の中を通る朝陽路脇に残る浪速駐在所の跡地である。この朝陽地区は日本時代には銅、水晶、胆礬(たんばん:カルカンサイト)、翡翠採鉱の為の坑道が築かれ、海岸部には銅鉱跡が残ることを後で知った。因みに、同じ南澳渓河口、朝陽の南隣は「海岸」という地名で、これは日本時代から引き継がれている。
[南澳]-1
東澳−南澳間も約10キロ、東澳の街に入り一端海抜ゼロメートル近くまで降りるが、再度坂を登り詰め、大きく下りながら南澳の街に入る。南澳は南澳渓河口のかなり広い沖積平野部に位置している。蘇花公路沿いでは最も広く且つ最も人口密度が低いという表現が使われる。
南澳の街に下り切らないうちに、「朝陽国家歩道」の表示が出て来て南澳の街を通らずに海岸へ辿り着くことが出来る。辿り着いた所は現在は朝陽里と呼ばれる小さな漁村だが、日本時代は「浪速」(なにわ)と呼ばれていた場所だ。この漁村の後方は亀山と呼ばれる標高200メートルにも満たない小山があり、その中に登山道を通してあるだけ、何故林務局が歩道指定したのかは筆者自身見当が付かないが、筆者が訪れた時は、村に一本しかない車道は観光客で非常な混み様で驚いた。
日本時代、原住民族に対する隘勇戦(あいゆうせん)を蘇澳から南に前進させることが、現在の蘇花公路北部一帯最初の理蕃事業で、現在の公路に沿う形で七箇所の駐在所を設置、その終点が浪速だった。浪速に置かれた駐在所跡地は現在でも手付かずで残っている。
尚、浪速は南澳渓河口の北側の村落になるが、南側の村落は「海岸」という日本時代からの地名が今でも使われている。又、南澳には日本時代は南澳支庁が置かれ、現在の南澳郷公所の前身、最近まで日本時代の建物が残っていたはずなのだが、2006年に訪ねた時は既にすっかり建て替えられていた。(メルマガ「台湾の声」2007年6月15日掲載分の一部を改編:次回へ続く)
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