2009年03月14日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−22

Kodou-345.JPG
【写真説明】更に脱線が続く。実はここに掲載する写真が到着するのを先週末心待ちにしていたのである。今回掲載した写真はその写真が届かなかった為、窮余の策として借り物を掲載した。写真とは地中に埋もれた(どんな状態なのかは皆目見当が付かなかったが)「征蕃役戦死病歿者忠魂碑」の一部である。読者の中にも実際征台の役の石門古戦場跡にある小高い山(虱母山?)の頂上まで足を運んだ方がおられると思うが、そこに嘗ては「西郷都督遺績紀念碑」と並び立っていた。現在の様子は、「恒春卑南古道(阿朗伊古道)−7」で紹介した。そこに掲載した写真手前に土台だけが残されている方に忠魂碑は立っていた。今はその石碑部分は消失しており、私は嘗てその山の頂上の縁を一通り調べたことがある。もう六、七年前のことである。当時、石碑は頂上付近の地中に埋もれておりその一部が露出しているというのを何処かで読んだことがあったからである。

最近になり、公共電視台の番組でその埋もれた石碑が紹介されたとG博士が電話してくれた。それで私はてっきり石碑の全部、或いは一部が誰もが見て判るぐらいに掘り出されたと勝手に想像したわけである。次回墾丁方面に行くことがあれば、その際実際見てくるからというので、その節は写真を撮ってくるようT博士にもお願いしておいた。彼らは先週末、四重渓温泉に入りがてら現地まで行ってきたが、手ぶらで帰ってきたと報告してきた。見つけられなかったわけだ。考えてみれば、大体そのテレビ番組が最近収録されたものか、以前の番組の再放送かは定かでない。かなり以前のものであれば、碑全体が露出していない限りは、探し出すのは容易ではないはずだ。

いずれにしても、「西郷都督遺績紀念碑」の方は碑文そのものが改竄されたとは云えそのまま倒されもせず今でも立派に起立している。他方、「征蕃役戦死病歿者忠魂碑」の方の碑はかなり低かったはずだが、消失している。何故そのように二様に分かれてしまったのか?記念碑の方は引き倒すには余りに高過ぎた為だろうか?そんな謎もある。私が自分で探してみようと思い立った当時も随分ネットで検索してみたものである。もうテレビで紹介されたのであれば、当時よりは関連記事がネット上に出回っているのではないかと思い、再度検索してみた。両博士の収穫なしとの報告を受けた後だ。

そこで探し当てたのが、「<鞠園>文史与集郵論壇」である。いやはやここに掲載された写真と文章には仰天してしまった。しかもこれらの写真を掲載した方は十年来この消失した石碑を探しておられたとのこと。全く奇特な方というしかない。この牡丹社事件+石門古戦場の部分だけでも六ページあるが、中国語が判らずとも写真を閲覧していくだけでも実に興味深い。

で、結局、どういうことかと云うと;

●今現在は「征蕃役戦死病歿者忠魂碑」は一基、しかも碑部が消失した形で、丘とも呼んでいい虱母山(?)の頂上に、「西郷都督遺績紀念碑」とペアで残存している。

●実際は、瓜二つの忠魂碑が、同じ山の頂上(現在地)と山裾とに建てられた。山裾に建てられたものは今は碑部、台座とも消失しているが、これは道路(県道199号線)拡張工事の際、撤去・廃棄されたようだ。その際の写真が冒頭に拝借・掲載させて貰ったものだ。何故、二基建立されたのか、その理由は判らない。

●山上に建てられた忠魂碑の碑部は頂上北側の斜面に碑が切り分けられ埋められているようだ。今でも、「碑」の文字が地上に露出した部分を観察出来るようだ。

加えて私がこれまで勘違いしていたのは、忠魂碑の表には「征蕃役戦死病歿者忠魂碑」と刻まれているものと思い込んでいたことである。実際は掲載写真で見るように「忠魂碑」の三字のみ、これは山上、山裾の二基とも同じである。

さて、次回は両博士は探し出せるかもしれない。何時になるか判らないが、その折は、このブログで紹介したいと思う。(了)
ラベル:台湾 台湾古道
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 恒春卑南古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
大変勉強になります。戦前住んだ台湾の山岳部を

もっと歩いておけばよかったが、空襲などで

山歩きもできなかった。平地だけは良くあるきました。

台南州の玉井村の周辺は良く歩いた者です。原住民

と良く出くわしました。数珠を飾り原色の衣で

目を見張ったものです。昭和14−21年の

台湾は戦争さえなければ平和な楽しい島でした。

台湾育ち;
Posted by kako at 2009年04月08日 13:37
kako様;

弊ブログにお越しいただき誠にありがとうございます。

成る程、山岳部は原住民管制以外に空襲という障壁もあったのですね。これは考え至りませんでした。貴重なご証言、痛み入ります。

それと「数珠を飾り原色の衣で目を見張ったものです。」というコメント、簡単な表現ですが、kako様の当時の鮮烈なイメージを私自身も共有できるような気がしてきます。残念ながらもうそんな本物のイメージには出会えません。

今後とも宜しくご指導、ご鞭撻の程お願い致します。(了)
Posted by 玉山 at 2009年04月09日 08:05
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