2009年03月21日
蘇花古道−7
【写真説明】左写真は蘇花公路上の白眉の一つ、東澳慶安堂兼「蘇花公路開路英雄世代永生記念園」からの東澳の海岸線と鳥石鼻を望んだもの。ここでは何時も逆光になってしまうのでこの程度の写真が関の山であるが、海の色の鮮やかさは見てとれると思う。本来は慶安堂に安置されているもともとは日本時代の小振りな遭難碑の写真を掲載したかったのだが何とも間抜けなことに見付からない。それで仕方なく右写真の無粋な碑を掲載し、記事本文中に借り物の写真を埋め込んでおいた。「開路英雄世代永生」と刻みながら日本人遭難者のことを想ったかどうか?
[東澳]
蘇澳−東澳間は約10キロ、蘇澳から出発すると一端坂を登り切り東澳の町へ向かって坂を大きく下っていく前に、大概の人は東澳休息站か、それより少し先で東澳への下りが始まる辺りにある小さな廟(東澳慶安堂)で車を停めるのが普通である。東澳の南側にある小さく飛び出た半島、鳥石鼻の形の妙と海との織り成す絶景を観賞する為だ。ここからの眺望は蘇花公路上の白眉の一つ。以前或る人に、台湾は鳥石鼻から始まったと言われたことがる。調べてみると確かにその通りで、鳥石鼻を形成しているのは台湾最古の岩盤だそうだ。
東澳慶安堂は一見ごく普通の廟、中には「開路先鋒爺」と刻まれた自然石が安置されている。その下には人名が刻まれている。廟の外にはこれとは別に、1993年に建てられた「蘇花公路開路英雄世代永生記念園」という碑があるので、この廟は戦後蘇花公路建設の際、殉職した人々を祀るものだということが判るのだが、不思議なことに「開路先鋒爺」碑に刻まれた名前の中に二名の日本人の名前がある。
実はこの「開路先鋒爺」の碑は元々は、大正6年(1915年)、東海徒歩道開鑿(臨海自動車道開鑿の前段階)の際の発破事故で殉職した人々を祀った「遭難碑」で、それら三文字と六人の殉職者の名前だけが刻まれていたものをすべて削り取り、戦後の同道工事の際の殉職者を新たに追加し「合祀」したものだ。具体的な合祀の方法は先の「合祀」の文字をクリックして参照して欲しい。オリジナルの遭難碑の最初の二名の名前は日本人だったが、「開路先鋒爺」に変えた際は、名前の順番も入れ替えてあり、先頭に来てるのは、戦後清水断崖付近の工事で殉職し、同地に殉職碑が立つ呉錦文氏(蘇花公路上には同氏に因んだトンネルと橋がある)だ。
蘇花公路上には、もう一箇所もともと日本時代に立てられた殉職碑がある。そちらの方は、碑自体を作り変えた上に、年号を中華民国年号に変えてはあるが、呉錦文氏の殉職碑と仲良く並べてある。(メルマガ「台湾の声」2007年6月15日掲載分の一部を改編:次回へ続く)
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