2009年02月21日
蘇花古道−6
【写真説明】右写真は蘇澳市街地を見下ろす金字山日月宮の建設中(2006年当時)の新廟内の納骨堂に仮安置された清軍墓標。疫病と原住民の襲撃で命を落とした。もともとこれらの墓は日月宮の後方、中央写真の地にあったものだ。右写真は日月宮から望んだ蘇澳市街地。同写真右側後方の小山が砲台山、嘗てこんぴらさんが祀られていた場所だ。
[蘇澳]
蘇澳は後山北路の時代から開鑿の起点だったので、清代の遺跡が、営盤、碑、墓地という形で現存している。
羅大春提督指揮下の後山北路開鑿にかかわる碑は、現在の蘇花公路の蘇澳−花蓮間約100キロの間に、三基現存(戦前は四基、鳥居龍蔵が花蓮の北、新城で発見したものは戦後、海へ水没)、その内二基が蘇澳駅前の商店街アーケードを少しばかり入った所にある晋安宮と呼ばれる廟に並べて安置されていることは、既に「蘇花古道−1」で紹介した。
一基は「北路里程碑」或いは「羅提督里程碑」と通称されるもので、同治十三年(1874年)の銘を持ち、蘇澳を起点として東澳→大南澳(現在の南澳)→大濁水(現在の和平渓河口、漢本・和平付近)→大清水(現在の清水断崖付近)→新城(現在の立霧渓河口)→花蓮の各地点間の距離が刻まれている。
もう一基は「羅提督義学碑」で、北路開鑿の際、羅提督が当時は宜蘭の中心地から僻遠の地にあった当地の人々の為に義捐金を下付、義塾(学校)を設立したことを称えたもので、光緒元年(1875年)の銘を持つ。どちらも台湾の歴史上は重要な意義を持つ碑だとは考えられるが、何故か現在まで国家古蹟にも県指定古蹟にも指定されていないようだ。尚、晋安宮には日本時代に奉納された石柱等も残っているが、これは蘇澳神社のものを持ち込んだのではないかというのが、ブログ「台湾に渡った神々」の主宰者、金子展也氏のご意見である。
金字山日月宮と呼ばれる壮大な廟は高台に築かれている為、蘇澳市街地ならどこからでも望めるが、ここに清軍墓地がある。蘇澳付近に散在していた墓地を集めたものらしく、元々はこの廟の後方の林の中に安置されていたのだが、筆者が訪ねた時は、同じ敷地内に別の廟を建設中で、そこの納骨堂に仮安置されているのを見せて貰った。これらの兵士の死因は戦闘に依るものではなく、北路開鑿中に疫病に倒れたり、原住民に襲われて落命したものだそうだ。
現在の蘇澳に限れば、平埔族の中でも最も漢化が遅かったと云われるカラヴァン族の猴猴社(kau-kau-a)の地とされているが、後山北路開鑿時の遭難は主にタイヤル族との間に起こったものと考えられる。同時期、つまり開山撫蕃下の清軍墓地は台湾に数箇所残っており何等かの保護が加えられているのだが、その後入ってきた日本人も同じ憂き目に遭ったにもかかわらず、理蕃下に於ける日軍墓地というのは筆者の知る限り一箇所のみ、しかもとても一般人は入り込めない場所にあり、今ではその存在すら台湾でも日本でも話題にならない。(メルマガ「台湾の声」2007年6月15日掲載分の一部を改編:次回へ続く)
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック