2009年01月31日
蘇花古道−3
【写真説明】清水断崖に代表される、太平洋の荒波が洗う台湾東海岸の絶壁を貫いて走る蘇花公路(省道9号線)の前身は、日本時代に建設されたものである。戦後、本格的な自動車道化が進められる過程で、安全確保の為、従来の道路を出来る限り海岸から離し山側へ寄せる工事が為されてきた。その為、もともとは日本時代に開鑿された部分が写真で見られるように残ることになる。写真は現在の蘇花公路174キロ付近にある錦文トンネル(戦後清水断崖付近の工事で殉職した呉錦文氏に因んだもの)横に残る旧道の様子である。
[日本時代]
現在の蘇花公路の前身となる日本時代に建設された臨海道(自動車道)は当時、「世界で最も危険な道路」と喧伝されていたそうだが、総督府が東台湾の開発に本格的に乗り出した時期からすぐに計画、建設が始まったわけではない。自動車道である臨海道は日本時代の最終形態で、それ以前に三段階があったことが判っている。
即ち、蘇澳から南に隘勇線(原住民族に対する包囲網・隔離線)を伸ばすべく、蘇澳−南澳(当時は大南澳)間で隘勇線を前進させていく。隘勇線を前進させるとは、山側へ原住民を強制的に押し上げ包囲・隔離させると云うのが本来の意味のようなのだが、まず蘇澳−南澳間の海岸線に約40キロの道路を建設する。これが日本時代の蘇花古道の始まりである。
この後、第二段階として、花蓮の北にあるタッキリ渓(現代表記:立霧渓)の河口南岸、現在のタロコ国家公園の入口に当る新城まで理蕃道路を通し、駐在所を配置していく。
1914年(大正3年)の“タロコ蕃(タッキリ渓谷沿い、現在のタロコ国家公園東段のタイヤル族群)討伐”の完了が、この沿岸原住民警備道を完成させることになる。つまり、総督府の東台湾開発・経営上、タロコ蕃を帰順させることが最大の課題だったということになる。
蘇澳−花蓮沿岸の原住民の帰順が安定してくると、第三段階として、一般民を対象とした徒歩道の開鑿を開始する。これが東海徒歩道と言われるもので、1925年(大正14年)、9年近い年月を掛けて完成に至る。最後が、この徒歩道の自動車道化で、1927年(昭和2年)着工、1932年(昭和7年)に完工させた。(メルマガ「台湾の声」2007年6月14日掲載分の一部を改編:次回へ続く)
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