【写真説明】竹仔門発電所構内には、発電所構造以外にも幾つかの日本時代の遺構が残る。防空壕もその一つである。その中で四基の石碑は代表的なものであろう。左写真は、発電所入口に繋がる道路脇に残る竣工記念碑、国定古蹟指定以前(当時は国家三級古蹟)は、刻まれた文字には塗料は施されていなかったが、指定後、黒塗りされた。更に、この碑が国定古蹟の一部を為すことが表示された。以前はこれが竣工記念碑などとは誰も気に留めなかったであろう。発電所構外にあるので持ち去り自分の家の庭石にすることさえ出来たはずである。それがいまだにこうして残っているところが台湾人の人の良さというより、地元の人がよくよく竹仔門発電所の存在意義を了解していたからだと思う。右写真は構内に今でも残る日本人三人の殉職碑。三人の殉職の原因は三人三様である。即ち、感電死(1910年・明治43年)、風邪をこじらせ病死(1927年・昭和2年)、取水池で作業中に転落、溺死(1937年・昭和12年)。
竹仔門発電所と石岡第一発電所は「瓜二つ」だと驚いたことが今回の記事を書く切っ掛けになったわけだが、少なくとも、同じ人間がこれら二つの発電所建設・運営に関わったからというのはどうも無さそうである。
水力発電所は何処でも作れるわけではなかろう。或る一定の自然条件を満たすことが必須であろうことは私のような素人でも理解出来る。自然条件とは具体的には勾配、取水すべき川・湖の位置等の地形的な条件である。当時、水路式発電所の設計・設置に携わる人々の間では或る一定の発電所構造と様式が共有されていたはずである。後は発電所を設置する自然条件がその構造・様式のバリエーションを決定していくであろうことも理解出来る。当時これら二つの発電所が設置された自然条件が偶々酷似していたというのが「瓜二つ」の理由ではなかろうか?
最後に…この竹仔門発電所は日本人による創建当初から丁度百年、その佇まいを変えることなくこの異国の地で生き残ってきた大きな理由は何であろうか?無論、前回の記事で紹介した案内板の説明にあるように、大高雄地区の発展に無くてはならない存在であり、今でも地元の電力需要に応えているからというのもその一つであろう。
しかし、根本的には発電所そのものの寿命に起因するであろう。石岡第一発電所は現在は東京電力の子会社である東京発電株式会社に依り遠隔操作され運営・管理されているが、有人制御時代の最後の責任者であった現茨城営業所副所長朝倉孝氏の言葉、「水力発電所は、維持管理を怠らなければ百年でも二百年でも持つ」(2008年11月28日付け東京新聞)、これが答えだと思う。(終わり)
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