【写真説明】左写真は発電所本館外観。二枚目の写真は避雷針、前回ブログでも触れたが建立当初からのものだと思う。三枚目写真は発電所内部、水車と発電機。発電所側の説明ではドイツ製でいまだに現役。同時期、茨城県に設置された石岡第一発電所の設計・建設に関わった日立製作所の創業者、小平浪平は日本自前の発電技術に拘ったようだが、発電所核心部のこれら水車・発電機は外国製に頼らざるを得なかった。左写真は、圧力水管上部の堰堤、この構造を専門用語で何と呼ぶのかは判らない。同写真奥に僅かだが極彩色の小さな祠が写っている。土地公で、発電所建設後地元の人によって設えられたもののはずだ。日本風に言えば水神様である。これとは別に構内には神社も作られたが今はその遺構は階段のみ、筆者は実はその位置は未確認。この外、圧力水管に加え沈砂池、水槽等と思われる発電所の上部構造を撮影した写真も持ち合わせているが、私自身が専門家ではなくうまく説明出来ないのと、それらの解説はこのブログの主旨ではないので割愛した。ご興味のある方は遠慮なく申し出ていただければそれらの写真を喜んで提供する所存である。
あけましておめでとうございます。このブログも足掛け四年になります。今年もご愛顧の程宜しくお願い致します。
さて、これまで「竹子門」と表記してきたが、該発電所の現在の表記に従い「竹仔門」に改めることにした。
六亀特別警備道−8:竹子門発電所(1)で同発電所のことは簡単に紹介した。その後昨年11月末になり東京在住のO氏から茨城県の石岡第一発電所がこのたび国指定重要文化財に指定される旨連絡をいただきその発電所の外観が判るサイトを紹介いただいた。余りにも竹仔門発電所と瓜二つなので驚いた。それもそのはずほぼ同時期の竣工である。前回は僅か一葉の写真しか掲載しなかったので、もう少し外観が判る写真を掲載する目的で追加記事を投稿することにした。
石岡第一発電所が国指定重要文化財(建造物)の答申物件になったことは、幾つかの全国紙、並びに地方紙で昨年10月17日付けのニュースとして取り扱われている。茨城県教育委員会の運営するサイト中、10月22日掲載分の「教育委員会ニュース」に依ると対象物件に対し以下のような説明がある:
[名称] 石岡第一発電所施設(4所、3基、3棟)
[所有] 東京発電株式会社
[所在地] 茨城県北茨城市中郷町石岡・茨城県高萩市大字横川
[特徴] 石岡第一発電所施設は、日立鉱山の電力需要の増加に対応するために久原鉱業所日立鉱山工作課長小平浪平及び同課技士宮長平作を中心として建設が進められた水路式発電所施設で、明治44年10月に竣工した。近代日本有数の銅山として知られる日立鉱山を代表する施設の一つとして、産業技術史上、高い価値があり、また、施設全体にわたって、鉄筋コンクリート技術を用いたわが国で最初の発電所施設である。とりわけ本館は、わが国に現存する最古級の鉄筋コンクリート造建築物として貴重である。
他方、台湾の竹子門発電所の方は既に2003年に国指定古蹟(「国定古蹟」)になっている。日本のネット内で公開されている石岡第一発電所の写真を見る限りに於いては、竣工は台湾の方が僅か二年早いだけなのだが、建造物外観は竹仔門発電所の方が古色蒼然としており明らかに優美な佇まいを堅持している。
石岡第一発電所の発電所本館の建築設計も小平浪平自身が行ったのかどうかは情報を持ち合わせていないが、竹仔門発電所の場合は、当時の台湾総督府営繕課長 野村一郎(兼台湾総督府庁舎建築設計審査委員会委員)だというのが台湾電力側の説明である。野村一郎は旧台湾総督官邸(現台北賓館)や旧朝鮮総督府庁舎などの設計を手掛けたことで知られる建築家。経歴を見ても確かに竹仔門発電所建立の時には台湾に居たようだ。ならば、発電所本館建築に凝ったバロック様式を持ち込んだというのも頷ける。
因みに、台湾にも古蹟の等級があるのだが、いまだに「省」の政治概念が抜け切れないので、これまでくるくる変わってきたし、今でも最終的にどう落ち着いたのか判然としない。今の所「国定古蹟」とは台湾で最も重要度の高い古蹟だと考えて間違いないのだが。
現在竹子門発電所内にある案内板には建設当時から現代に至るまでの経緯を非常に判り易く記した案内板が立っている。その全訳(ブログ筆者拙訳)である。尚、[ ]内は筆者の註:
{案内板翻訳}
本発電所は1908年[明治41年]に建てられたもので、初代水路式ダム[註1]、位置は[高雄県]美濃鎮獅山里竹門20号である。1909年(明治42年)10月27日竣工、日本統治時代、日本人が南台湾地区に建造した最初の水力発電所で、[当時は]「竹仔門発電所」と呼ばれた。
本発電所は高雄地区の電力事業に於いて非常に重要な役割を果たした。即ち、高雄港築港に伴う電力需要に応える為、1909年11月20日には築港現場に電力の供給を開始した。又、1911年には九曲堂から高雄地区への上水道建設[註2]の為の工事にも電力を供給した。1910年の初期段階に於ける電力供給範囲は高雄、台南、屏東で、その後引き続き供給範囲を拡大し、1916年には旗山、岡山も供給を受けられるようになった。
「竹仔門発電所」の貢献は以下の通りである:
1.荒地だった美濃地区が美田に転じ、同地区の産業育成を促した。
2.高雄港、高雄市の現代化が促された。
3.早期に電力を確保した為、高屏地区、台南地区の商工業の迅速な成長を促した。
●1946年、日本が台湾を放棄した後は、台湾電力が後を継ぎ、「竹子門発電所」と改名された。
●1977年5月30日、[台湾電力の]組織簡素化の中で、土[土/龍]湾発電所と合併、高屏発電所となり、本所は「高屏発電所竹子門分廠」となる。
●1992年5月22日、国家三級古蹟に指定される。
●2003年7月16日、内政部は本所を国指定古蹟に指定することに合意、10月28日、国指定古蹟「竹仔門発電所[台湾では「電廠」]」として正式に公告される。
{案内板翻訳終わり}
[註1]案内板には「第一代川流式電廠」とある。日本で言う水路式発電所の意味だと思う。
[註2]この上水道については高雄県大樹郷九曲堂周辺に日本時代の遺構が残る。竹寮取水站や曹公[土/川]等である。そのうち紹介する機会があると思う。
今回の記事を書くに当り一つ新たに判ったことは、竹仔門発電所の本館建築が何故当時今みるような非常に凝った設計になったかが判ったことである。(>次回へ続く…)
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日清戦争の結果台湾は日本に帰属。台湾総督府は基隆港・高雄港・縦貫鉄道などの都市基盤整備を行いました。台湾総督府土木技師高橋辰次郎は東大土木学科卒業論文で東京湾埋立て計画を提案。台湾では特に基隆港築港に貢献しました。基盤整備には水力発電が必要であり、ダム建設にも携わり、台北近くでは建設反対派により足を狙撃もされましたが命には別条ありませんでした。美濃竹子門水力発電所は現在現役で、地球環境に優しいエネルギーとして活躍。辰次郎は大正八年には工学博士号を送られ、台湾電力最高顧問に就任しています。私の祖母の兄です。辰次郎の出身地が美濃大垣市で、旧名と音が似ており例外的に残されたものと思います。私の祖父徹吉も台北にあった台湾総督府中央研究所に勤務。今日、片山徹吉の研究論文が台湾のホームページにあります。母は台湾書院街五丁目で生まれましたが、地名変更により消滅。母の日本の戸籍には出生地の記載がありません。美濃は日本列島の中央にあり、岐阜県の南側に位置し、古代よりの地名。山に囲まれており当地と似た環境で、辰次郎が望郷から愛した土地、総督府が辰次郎の提案を採用したと考えます。大陸への配慮から公式には公表されないのでは?詳しくは『制海のいしずえ』片山徹著e-Bookland からダウンロードできます。記片山徹
弊ブログをお引き立て賜り誠にありがとうございます。
やはり日本の美濃ですよね。それしか考えられないのですが、何故か、これまで台湾側のサイトではその関係に書き及んだものにこれまで当たったことがありませんでした。それで私自身もここは元々美濃だったのか?と傾け掛けていました。
但し、それが大陸への配慮という背景があるかどうかは疑問だと考えています。今の台湾は何処も日本時代との関係を堂々と強調したがりますので。背景が判る研究者に乏しかった?
今後とも宜しくお願い致します。(了)