2008年12月27日
『水の古道』二峰[土川](3)
【写真説明】第二回目の記事で紹介したように本来は河床下にあり伏流水を集める機構であるはずの「地下堰堤」は既に露出している。左写真がそれである。これは河床石礫の商業用乱採掘の結果とされている。二枚目写真は、地下堰堤中の「集水廊道」を通ってきた伏流水の引き出し口に設けられた「進水塔」、日本時代の建築物である。三枚目写真はその内部。右写真は進水塔を経由した伏流水がトンネルから出て来る様。このトンネルも日本時代の遺構である。
2008年度最後の記事である。二峰[土川]は二回の記事で完了させる積りだったが、もう少し掲載したい写真があったので、記事も追加することにした。
さて、第二回目の記事の最初の自問に戻る。当時何故画期的だったのか?これは専門家でないと判らないと思うが、筆者が想像するに、多分伏流水を利用し年中豊富な灌漑用水を確保するシステムだったということ、何しろ台湾では年中収穫が可能なわけだから。それが現在でもそっくりそのまま使われているということだろう。二つ目の自問、何故今話題になるのか?鳥居信平が現代の日本人には全く無名の人で新たに発掘されたから?メルマガ「日台共栄」の最近の配信に依ると平野久美子氏が「発見」するまでは殆どクローズアップされることが無かった?大いに疑問である。
私がこの二峰[土川]に驚くのは、素人でも理解出来る当時の設計者の技術である。地上に姿を現した後の二峰[土/川]はまっ平らな農地を東から西に流れる。二峰[土川]の日本時代に設けられた水路末端は、現在の省道1号線近くまで届いていると思うが、来義大橋からの距離は相当なものである。途中、一切の動力も設けず今でも水が滔滔と流れる。正に魔術としかいいようがない。何時もそれらの水路を横目に車を走らせながらそのことに感動する。どの国の人間が嘗て作ったかは今となっては意味がない。もう台湾と日本は別な国家である。
因みに、二峰[土川]の着工は大正10年(1921年)11月、完工が同12年(1923年)5月ということである。
最後に、実はこの二峰[土川]のことは、森丑之助の「生蕃行脚」の中に出て来る。「内社渓を遡る」の章にあり、それを引用してこのシリーズを完結させることにした。森丑之助のいう内社渓(ライ渓)は現在の林辺渓と同義に受け取っていいと思う:
「...潮州より僅に五里余の近距離に在り、潮州迄は今日にては縦貫鉄道が通じて居る。この点に於ても現時では南蕃見物の為には最も便利な位置に在る。
近来は台湾製糖会社の内社渓灌漑工事の為に、蕃人の労力を多く使用するのみか、星製薬会社の薬草園の為にも蕃人を多く使役して、是等の労賃に依って近時此方面の蕃人は比較的富裕なる生活を為すに至った...」(終わり)
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