2008年12月20日
『水の古道』二峰[土川](2)
【写真説明】屏東県来義郷古楼村入口付近に台湾糖業公司(台糖)の万隆機庫がある。台糖がいまだに所有する農場で使うブルドーザー等の大型建機の駐車庫兼修理工場である。もともとは台湾製糖株式会社が所有していたものだ。そこの門の前に円形の堰があり、そこで[土川]は三本の水路に分岐する。「分水閘」の字が使われているのが左写真で日本時代の遺構であるが現役である。日本語で何というのかは判らない。中央写真はその分岐した水路の一つ、実に鮮烈な水が落ちる。右写真は同じく分水閘傍にある同じく台糖所有の空き地に残る日本家屋で今は作業小屋兼休憩所である。
さて、前回の記事では何やら二峰[土川]は歴史的価値のありそうなものだが、単なる水路に過ぎないのではないかと思われた読者が殆どだと思う。私が前回の記事に掲載した写真を見れば正にそうである。私も土木工学者ではないので、その価値は実は判然としない。何が当時画期的だったのか?それと何故今でも台湾、日本の双方で話題になるのか?
そもそも、この二峰[土川]とは何か?二峰[土川]の設計者は、当時台湾製糖株式会社代表取締役だった鳥居信平。鳥居信平を日本のサイトで検索すると二峰[土川]の説明が出て来る。それらを閲覧すると「地下水」、「地下ダム」という説明で統一されている。ダムが地下にあるというイメージは何かしら凄そうだが、素人には判らない。
では鳥居信平自身は何と呼んでいたのだろうか?昭和11年度(1936年)の日本農学会農学賞を受賞した鳥居信平自身の論文名は「伏流水利用による荒蕪地開拓:台湾製糖株式会社万隆農場創設並に其経過」(註:旧漢字は現代漢字に変換)である。伏流水と地下水はどう違うのかと言われれば私は答えに窮してしまうが、財団法人環境情報普及センターが運営するEICネット内の説明では、伏流水とは「河川の流水が河床の地質や土質に応じて河床の下へ浸透し、水脈を保っている極めて浅い地下水。本来の地下水と異なり、河道の附近に存在して河川の流水の変動に直接影響されるものをいう。(中略)扇状地や厚い砂礫層が堆積している河床をもつ河川水は地下に浸透し伏流水となりやすい。」つまり地下に潜った河川の水である。
林辺渓の下流域、即ち日本時代、台湾製糖が広大な万隆農場を開鑿した場所で今は単に「農場」と呼ばれる地域を灌漑するに当り、水の豊富な雨季はそのまま河川を流れる水を利用し、河川を流れる水量が減少する乾季、旱魃時は河床下に潜った伏流水を集めそれを灌漑に利用する集水・配水システムが二峰[土川]である。
現在の台湾では、林辺渓地下を横断して設けられた伏流水の集水施設を「地下堰堤」(今は次回投稿記事に掲載予定の写真のように露出してしまった)、集水された伏流水の堰堤内の水路を「集水廊道」、堰堤外へ引き出された水がトンネルを通じ流される水路を「地下廊道」、地上に出た後は単に「廊道」と呼んでいる。私の以上の説明では判りにくいはずなので、この二峰[土川]を専門に研究してきた屏東科技大学の丁K士教授の書かれたダイヤグラムを前回の記事で付記したブログ「台湾情と日本心」から拝借してきたので参考にして欲しい。
二峰[土川]の核心部である地下堰堤は、来義大橋の少しだけ上流側に設けられている。そこは林辺渓に流れ込むライ(来)渓とクワルス(瓦魯斯)渓との合流地点でもある。ライ渓の源頭は衣丁山(標高2,068メートル)、クワルス渓の源頭は南大武山(同2,841メートル)で、大武山山塊南部の豊富な水が集まる。それでも台風の時を除いては、林辺渓を流れる水量は多くない。相当量が地下に潜ってしまうということである。(>次回へ続く...)
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まず最初に浮かんだのは、大分昔に映像で見た中央アジア(たぶん)の砂漠のカレーズ(灌漑用の地下水路)です。その歴史はとても古いように記憶しています。そしてその水路ははっきり覚えているわけではないのですが、とても涼しくて人も通れると言っていたように思います。
鳥居信平という人は勿論そんな情報を知っていなくても、技術者として色々な道理を考えれば出てくるアイディアなのだろうなとも考えましたが、どちらにしてもその結果がもたらす効果は凄いものだと思います。
先日会った台湾の人から日本の植民地政策として「日本を工業国に台湾を農業国に」と考えていたと聞きました。この灌漑システムもその考えの下に行われたのかと推察します。