2008年12月13日
『水の古道』二峰[土川](1)
【写真説明】左写真は来義郷丹林村復興社区、パイワン語の漢音表記は喜楽発発吾社にある森林公園の中に置かれた「太陽之子排湾的栄耀」と題されたレリーフ。小振りだが実に気持ちの良い公園である。同公園内にパイワン族の石板屋を模した「二峰[土川]水資源歴史文物館」があることになっている。なっていると書いたのはこの文物館がオープンしたは2005年9月なのだが、一体何時一般の参加者に解放しているのか皆目見当が付かず、最近出掛けた折も日曜日だったにも拘らず閉まっていた。看板も掛かっていない。恐らく学童の為の教育資料館みたいな利用のされ方になっていると思う。この村で日本時代に建設された二峰[土川]を通じ地下を運ばれた水は地上に姿を現す。中央写真は、二峰[土川]が地上に出て来る場所、左側の水路の方で、灌漑用水路。その左側水路が溢れると真ん中の堰を介して右側水路に流れ出し林辺渓へ戻っていく。手前に写る水門の部分は戦後のものだが、二つの水路並びに両側の堤は日本時代のまま。実に鮮烈な水が滔滔と流れており驚く。右写真は二峰[土/川]に架かる水門の一つ。水門の上部構造は戦後のものであるが下部は日本時代のものを流用している。
「浸水営古道-11」で「二峰[土川]」の事を少し書いた。二年弱前の記事だが実際現場に出掛けたのは2006年8月である。この時は偶々地元新聞で見た記事(2006年7月?)に興味を持ち出掛けただけで、私が来義方面に出掛ける時何時も見ている灌漑水路が、想像していたように日本時代に台湾製糖株式会社によって建設、管理されていたというのを確認したに過ぎなかった。水路自体は今でも日本時代に作られたものがほぼそっくりいまだに使われている。各所に設けられた水門はもう戦後のものである。但し、その規模はかなり広大なものであることは予想出来ても具体的な広がりは判らなかったし、その水は林辺渓の水を単純に引いていると考えていたので、何故今頃になり「日本人の作った[土川]に見習え」などと言い出すのかも判らなかったが、そのままにしておいた。
その後東京在住のOさんが、来義村の村長さんを訪ねた折り、村長さんに日本時代に建設されたという地下水路(或いはダム?)を案内して貰ったという話を聞いた。それでもその地下水路と「二峰[土川]」とは結び付かなかった。時間があれば私も村長さんを訪ね見ておこう、ぐらい。
更に、今年(2008年2月)になりメルマガ「日台共栄」で平野久美子氏がこの「二峰[土川]」に関して講演するという記事の配信があった。私はその記事のタイトルしか見ず、また、何で今頃になって、ぐらいにしか気に留めていなかったのだ。
私は今の仕事の関係で台湾に始終居るわけにもいかない事情がある為、台湾に居る間は天気さえ良ければ山に入ることしか考えていない。それで週末雨でも降ろうものなら誠に機嫌が悪い。最近もそうで、仕方がないので、私の五十回目の誕生日の記念にと、同じ来義郷文楽村(日本時代のプツンロク社)の然る方に製作をお願いしていたパイワン族の刀を受け取りがてら、来義村の村長さんを訪ね、その地下水路でも見せて貰おうと出掛けた。
何時ものように古楼村(日本時代のクナナウ社)から来義村(同ライ社、或いは内社)に至る道路を走る。来義村に至る来義大橋を渡る手前には来義国民小学校がありその周りにも小さな部落が形成されている。正式には来義郷丹林村復興社区であるが、そこの人々は「喜楽発発吾社」と称している。シラハハーとでも発音するのだと思うが、元々は、ライ社、ボガリ社(旧望嘉)、タナシウ社(旧丹林)辺りから移遷してきたらしい。位置的には林辺渓を挟み、今は遺棄されたタナシウ社と向き合っているが、実際はタナシウ社は遥か山上である。
その出入口に喜楽発発吾社の案内図が立てられている。私はこれまで何度も見ているのだが、今回も又その案内図を見る、確か何々古道が村の裏山にあったのでその位置をもう一度確認しておこうとふと思ったからだ。
さて、泰来古道(旧タワルス社と旧ライ社との間道)と記載されているには好いとして、その案内図の中央を青の破線が走り、「二峰水[土川]」廊道」、「二峰水[土川]」地下廊道」「二峰水[土川]起点」と書いてある。今までどうして気付かなかったのか不思議なぐらいだが、人間の注意力というのはそんなものだろう。因みにこの案内図は2004年3月の作成である。
なら、Oさんが案内して貰った地下水路は多分これだろうと思い、来義村まで出掛けるのは止めて、来義小学校の周りをうろうろして撮った写真が今回掲載したものである。
この日帰宅して台湾のネット上で検索してみたら、二峰[土/川]関連記事の多さに驚いた。二峰[土川]は喜楽発発吾社の誇りだ。それで、今回の記事は浸水営古道の追加記事として掲載することも考えたが、このパイワン族の末裔の村に敬意を表し「パイワン族秘道」の追加記事として掲載することにした。そして私も初めて鳥居信平の名を目にすることになる。
この日は雨も降っており時間も押していたので調査半ばで引き上げた。そして二日空けて又同地を訪れた。その時に踏査した際撮影した写真は次回の記事に掲載するが、踏査箇所、並びに記事執筆に関しては、以下のブログを参考にさせていただいた:
「台湾心と日本情 」台灣地下水利用的典範ー鳥居信平の二峰[土川]」(July 1, 2006)
http://www.wretch.cc/blog/coaaa/6405635
(>次回へ続く...)
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