2008年11月29日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−20

Kodou-301.JPG Kodou-300.JPG Kodou-302.JPG
【写真説明】左写真は屏東県牡丹郷東源村にある現地では「哭泣池」と呼ばれている湖、地図には東源池と記載されている。中央写真はの同村の標示板。右写真は同じく同村内にある水上草原と通称される湿地帯。左写真の湖は右写真左奥に位置する。撮影したのは6月だがあいにくの雨天で、湖の写真も草原の写真もぱっとしないのは勘弁願いたい。

[南仁湖と東源水上草原]-2
「台湾の声」に投稿した恒春卑南古道の分は前回の記事で終了したが、最後の記事では南仁湖の説明に終始し、東源水上草原の説明はごく簡単なもので終わらせたので、今回の記事で補足することにした。

東源水上草原に交通の便の良い西海岸からアクセスする方法は、二つある。西海岸の楓港と東海岸の達仁との間を結ぶ省道9号線(南廻大路)が中央山脈を越えようとする最高点付近で屏東県道199号線と出会う。この199号線を南下する方法が一つ。因みに、この最高点付近は日本時代、「壽峠」と呼ばれていたようだ。又、この最高点から9号線を達仁側に下った所に、「森永」の地名(正式には台東県達仁郷森永村)が残っている。こちらの方は日本時代牧場開拓村だったもので、今でも牧場経営は続いている。もう一つは、199号線を車城、四重渓温泉、牡丹をそのまま北上する方法である。

この水上草原がある辺りは屏東県牡丹郷東源村で、牡丹郷とその北の獅子郷との境界に位置する。パイワン族の村だが、元々は嘗て獅子郷の台湾鉄路の最南端の線である通称南廻鉄路が中央山脈を越えようと辺りに居住していたマリッパ(麻里巴)社の一部の人々が移遷してきたということだ。

私は「台湾の声」に投稿した際は、「東源草原は実際は草原になる前の段階の湿地帯」という表現をしたが、実は南仁湖と同じように湖がある。今は東源池と呼ばれている小さい湖だが、日本時代は牡丹池と呼ばれていてその水は牡丹水庫(ダム)まで流れ込んでいるようだ。

この池の別称は「哭泣湖」で「哭泣」は水の淀む所の意のパイワン族の漢音訳であるとか、移遷してきた当初の伝説に基付くものであるとか、台湾のサイトを見ると色々由来があるようだ。商業的にはこの名の方が当然受ける。

何故、恒春半島にはこのように湿原、草原地帯が各所に現出しているのか?これは興味深い質問だと考えているのだが、南仁湖とか東源池の周辺の草原に関しては地理学上それなりの説明が加えられるだろう。これはその内調べてみる積りだ。それとは別に、恒春半島の場合、山中忽然と草原が立ち現れる箇所がある。これは素人でも少し奇妙に感じてきたのだが、森丑之助の「生蕃行脚」を読んでいたら回答らしきものが出て来た。

これについては次回書き、「恒春卑南古道」のシリーズを一旦終わらせることにする。(終わり)
posted by 玉山 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 恒春卑南古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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