2008年08月02日
浸水営古道−18:帰崇段−2
【写真説明】左写真は大漢林道(屏東県道198号線)6キロ地点にある検問所。ここから先の林道を辿る為には本来はここで入山証を取得しなければならないが、今は検問所自体が閉まっていることが多い。二枚目写真は、旧大漢林道(旧県道198号線)、林道と古道が最初に出会う地点から真っ直ぐに検問所に至る道路で鳥居龍蔵、森丑之助も歩いた道である。真ん中のコンクリートが抜かれているのはコスト削減の為か?日本では見掛けないと思う。三枚目写真は同林道7キロ地点にある貯水槽と落書き群。「浸水営古道」と書かれ矢印が書かれているが、矢印の意味は林道をそのまま進め、つまり大漢山直下に入口を持つ古道東段に至る方向を示唆している。三角点標示もあり、嵌頭窩山三角点を示している。右写真は、最近新たに見付けた指導標。春日郷公所・帰崇村弁公処・帰崇社区発展協会の三者に依るものである。古道西段の最下段に対し「帰崇段」という呼び方があることを初めて知った。
大漢林道6キロ地点にある検問所を過ぎて1キロぐらい上ると、道路右脇に円形のコンクリート製の貯水槽があり、各々林道から左右に分岐していく産業道路がある。つまり、林道と産業道路が交差しているわけだ。林道左脇には「帰化門営盤」の指導標が立っておりそれに導かれながら産業道路を降りていくと、やがて林務局に依るこの営盤の案内板がある場所に到る。その案内板には産業道路開鑿の際に営盤を破壊し今は存在しないと説明がある。そこには力里山への登山口があるが、力里山へ登らずに更に力里山の北側を巻くように産業道路は続いており、そのまま進めばリキリキ社に至ることになっている。これが清代・日本時代の浸水営古道なのだが、実際どの辺りまで入り込めるのか全然見当が付かない。
更に古道はリキリキ社を経由し六儀社営盤に至り大漢林道と再び出会う。つまり、その貯水槽から六儀社営盤までの現在約7キロの大漢林道は力里山の南側山裾を巻いており、他方古道は力里山の北側を巻く。従ってこの区間の林道は古道ではない。これは筆者の誤解であった。
私の記憶が正しければ、貯水槽から右側に降りていく産業道路脇には何の標示もなかったはずなのだが、最近リキリキ社を尋ねようとし同地点を通過した際、手作りの「往帰化門営盤遺址(浸水営古道帰崇段)」なる指導標を見付けた。これが正しければ帰化門営盤は二箇所存在することになるのだが今は詮索しない。前回、今回のブログ記事のタイトルは実はこの指導標から拝借した。今までそういう呼び方を目にしたことがなかったからだ。
但し、この指導標が指している先には二本の道がある。一本は貯水槽の背に控える小山に向うもの、もう一本はこの小山を巻きながら緩やかに下る道、最初はこの小山に向う道を歩いてみた。実に可愛らしい気持ちのよい道で5分程で嵌頭窩山(標高728メートル)の頂上に着く。山登りが好きだと言っても、三角点に簡便に辿り着けるのは実は非常に嬉しい。頂上下で小山を巻いてきた産業道路と出会いそのまま検問所の方向へ降りて行く。この産業道路はそのまま古道である。つまり、この短い区間、大漢林道は嵌頭窩山の北側を巻き、他方古道は南側を巻く。
森丑之助の「生蕃行脚」の中に次の下りがある:
「枋寮から特派された私達護衛の為武装した警官六名、この行列十六、七人のものものしさは百鬼昼行の旅姿とでも云い得るだらう。銃器を肩に護衛のサーベル連、平地では口が達者だが、新開庄から先きの坂道となれば俄然沈黙して立止まりては下界を眺めて景色を賞める。私達淮蕃公の若者共は、お気の毒に思われるので歸化門趾の所から護衛の方々のお帰りを願ふた。」(筆者註:「枋寮」の「寮」は原文ではくさかんむりがある)
この森丑之助が護衛にお帰りを願った地点が、現在貯水槽がある場所、即ち林道と産業道路が交差する場所ではないかと思われる。(終わり)
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