2008年07月19日

パイワン族秘道−12:チカタン社(現屏東県春日郷七佳)

Kodou-243.JPG Kodou-244.JPG Kodou-245.JPG
【写真説明】左写真はチカタン社へ到る郷道途中からリキリキ渓谷を俯瞰したもの。同写真左側の最高所は石可見山(標高1,621メートル)、それより一段低いピークの左側山裾にチカタン社がある。又、同写真右側の最高所は大漢山(同1,688メートル)、それより下って来る稜線は力里山(同1,170メートル)に至るが写真に頂上は写っていない。同写真右側山裾下にリキリキ社がある。中央写真はチカタン社の中の一風景。森丑之助の「生蕃行脚」のリキリキ社の項に「頭目家の家の前には石盤石で積んだ小高き露台があってこれは指令塔の如きものである。必ず榕樹が植えてあって、この木は即ち頭目家の所在を示すシンボルなのである。」とあるが、実際これが頭目の家かどうかは自信が無い。右写真はチカタン社の登山口に到る自動車道脇で見掛けたパイワン族の粟(あわ)の畑。「生蕃行脚」に謂う、「此方面一帯の生蕃は粟、山薯、蕃薯、里芋を植え、これを主食物に充てて居る。」。

チカタン社については「崑崙拗古道−6」で既に紹介したので、今回は簡単な説明で終える。

今年になりO氏を伴い二度この旧社を尋ねようとしたのだが、一度目は車で産業道路と紛うような郷道132号線を辿り旧社まで入ろうと試み、四輪駆動ではないと歯が立たないことが判り断念、二度目は過去悪戦苦闘した旧七佳と老七佳間の連絡道を辿った。七佳渓と力里渓の出会いに力里吊橋が掛かっておりそこから歩き出す。最初半時間弱急登を強いられるが、その後はほぼ平坦な山道を辿ることになる。やがて、原住民のコンクリート製の作業小屋に辿り着く。そこが徒歩に依る連絡道と以前はマンゴーを栽培していた為に使われていた車も通れる産業道路との出会いになる。ここで、その産業道路を辿らず判りにくい入口から更に山に入り歩を進めると、再び産業道路に出会う。後はその産業道路を辿ると広場に出る。そこがチカタン社である。過去のブログ記事ではチカタン社まで辿るのに二時間程度掛かると書いたが、今度歩いてみたら一時間強で着いた。

前にも書いたが、現存する最大のパイワン族集落遺構である。遺構という言い方は実際いまだにここに寝泊りし農作業をしているパイワン族の方々がいらっしゃるので失礼だと思う。今回気付いたのだが、各家々にはきちんと錠前が付いている。つまり毎日ここに来ずとも何らかの形で管理しているからこのように保存状態がいいのだが、やはり車が入れるのは大きい。因みに、森丑之助の「生蕃行脚」の中ではこの旧社に触れられた部分は無い。

無論、車さえあれば誰でも来れるのだが、パイワン族の住居と生活を理解したければ、やはりガイドを雇うに限る。特に生徒・学生を対象にしたツアーはよく企画されているようだ。検索サイトで「老七佳」をキーワードにすれば幾らでもこの旧社を紹介したサイトが出て来る。その中で以下のサイトは、ツアーを希望する場合便利と思われるので参考までに掲載しておく。http://163.26.9.12/chwenh/myweb8/pt147.htm

さて今回新たに判ったことは、チカタン社からリキリキ社、クナナウ社への連絡道はまだ残っており歩ける状態にあるということだった。チカタン社から東側を望むと確かにクナナウ社への連絡道がはっきりと見て取れるが、実際クナナウ社に到るにはパイワン族の方のガイドが必要であろう。

尚、粟(あわ)と原住民との関係については「生蕃行脚」の中で次のような下りがある:

「此方面では米は漢人に依って伝へられたもので、彼等固有の食糧品でないとして居る。(中略)彼等は粟を大切にし、祖先伝来の貴い食料品として居り、米を以て卑しいものとして、古風の蕃社ほどこの感念が深いのである。この米に対する感念はパイワン族のみではなく、ツオウ族にてもブヌン族にしても同じであった。」(終わり)
posted by 玉山 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | パイワン族秘道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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