2022年04月02日
六亀特別警備道−42:第28宿「見附」(3)
【写真説明】見附の次は第29宿「濱松」分遣所に至るわけだが、GPS情報を取得出来ず、見附分遣所から緩く広がる下りをどれほど辿れば行着くのか見当付かず。しかも見附山山頂まで至るのに随分時間を要してしまった。それで、六亀警備道関連の投稿サイトに最近よくアップされている五輪塔だけは見ておこうということで、濱松方面へ下った。それらのサイトでこの五輪塔は「神社」遺跡として紹介されているが、これは仕方のないことだろう。神社とお寺の区別をきちんとできる台湾人はそう多くないはずだ。サイト内に「日本人祭祀先人的紀念塔」のコメントを見付ける。そもそも五輪塔は卒塔婆、墓である。高さ40a程度の五輪塔は稜線右側(西側)端に佇んでいた。土台はセメントで固定されている。台湾サイト内の写真では転がしてあるように見えていたものだ。誰が何時どういう事由で持ち込んだのか?五輪塔は日本で独自に発達したとも言われるので、戦前の日本人だろうが、警備道開鑿と関係があるのかどうか?五輪塔はその下方の平坦地(中央・右写真)を望むような場所に立っているので、その平坦地が濱松分遣所跡地ではないかとも考えたが、見附分遣所との距離が200b程、近過ぎる。それでも中央写真に見られるような人工の石塁があった。(続く)
2022年04月09日
六亀特別警備道−43:小関山林道
【写真説明】上段左写真は小関山林道約7.5`附近の検査哨、正式には、高雄市政府警察局六亀分局宝来検査所、今回の六亀警備道の踏査に際し、実に2006年以来久々にここのゲートを越した。既に標高1,200b程度ある。中央写真は、今回の踏査行の北限の駐在所、藤沢分遣所の在処、小関山林道14`地点の今は廃棄された検査哨、林道起点に向かい撮影、藤沢遺構直下南側、同写真左側から駐在所跡地へ辿れる。右写真は、中央写真撮影地点から林道を更に600b程北へ辿った先の新(左)旧(右)林道分岐点、右側林道は既に封鎖、藤沢遺構直下北側、同写真右手から駐在所跡地へ辿る。詰り、小関山林道14`附近で、林道脇の南北両方から藤沢跡地にアクセス出来るという意味である。尤も、この地点迄入り込み南北何れか側から進入する物好きは駐在所ハンターには非ず、三角点ハンターである。藤沢分遣所跡地=小斯拉巴庫山山頂だからだ。
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2022年04月16日
六亀特別警備道−44:第6宿「藤沢」
【写真説明】六亀警備道上の駐在所遺構を求め小関山林道を何処まで辿るかについては、実は藤沢分遣所跡地が適当でないか?と最初から目論んでいた、と言うより決めていたというのが正直な所だ。何故なら、森林三角点を擁する小斯拉巴庫山(標高1,377b)山頂が藤沢であるという知見があったからだ。筆者は日本時代に埋定された三角点は山頂の高低に拘らず機会があれば尋ねることにしている。しかも林道脇の登山口から5分程で山頂まで辿れるという山行記録も目にしていた。登山口は二箇所、林道起点を背に右側(東側)にあり、南北両方から林道に沿い、緩い登りが付いている。これがそのまま警備道であることは、僅かに路肩擁壁の石塁が散見されるので直ぐに感得出来る(左、中央写真)。三角点は分遣所跡地の中に埋定されている(埋め込みパノラマ写真;三角点は左端に小さく写る)。殖産局森林課に依る三角測量は、大正14年(1925年)から始まり昭和19年(1944年)迄継続されている。六亀警備道の整備が進むのは五箇年計画理蕃事業の最終年、大正4年(1915年)なので、分遣所設置の方が明らかに早いはずだ。三角点が埋定された時は、藤沢分遣所自体既に閉鎖されていたかもしれない。小斯拉巴庫山山頂はそれ程広いとは思えなかったが、敷地を囲む石塁は殆ど崩壊している様子が落ち葉に覆われた起伏で判る。山頂南側の正門と思しき遺構の石塁の残存状況(右写真)は良好だった。尚、「斯拉巴庫山」(標高2,757b)と云う玄人ハイカー向けの山が、藤沢分遣所が設置された小丘陵より遥か北側にある。ブヌン語の漢音訳だと思うが、日本時代のカタカナ表記は「スーラバタン」、由来判らず。藤沢分遣所が設置された山はこのスーラバタン山に対峙させたものらしい。(続く)
2022年04月23日
六亀特別警備道−45:第7宿「平塚」
【写真説明】平塚分遣所跡地も大磯分遣所跡地も、小関山林道の起点を背にして左側(西側;右写真右側土手)にあり、林道に隣接していると云う表現でも良いぐらいの距離しか無い。但し、藤沢跡地の三角点のようなマーキングがあるわけではないので、GPS座標無しで探し出すことは困難だ。平塚分遣所は林道約13.5`地点、林道から入り込んだ地点が実際の跡地より北側だったので、暫く林道沿いに警備道の痕跡と思われる部分を南側に歩かされる羽目になった。跡地は山側だが平坦地、以前は畑地として利用されていたのではないか(前述の警備道痕跡も農道跡かもしれない)と思わせるような茅が大勢を占める立地である。石塁の丈が高い分遣所遺構はかなり良く残っている(埋込パノラマ写真1とパノラマ写真2を参照;中央写真はパノラマ写真2に写る石塁の拡大図、両遺構は別棟)。(続く)
2022年04月30日
六亀特別警備道−46:第8宿「大磯」
【写真説明】大磯分遣所跡地は小関山林道約12.5`地点、立地は平塚と全く同じだと言えるが、更に林道に隣接している(左写真は筆者の背中が林道起点側、左側土手から進入)。これも平塚と同じだが、旧警備道と思しき跡を辿る(中央写真、右側が林道側)。平塚跡地と比べると藪から解放されており、嘗て畑地、恐らく林務局の「苗甫」(花卉樹木の苗育成所)として利用されていた可能性は平塚より更に高いと予想する(埋込パノラマ写真参照)。但し、遺構の残存状況は平塚に比べると見劣りがする。右写真の中央部に写る石塁が唯一の駐在所遺構かと思われた。(続く)