2021年10月02日
《嘉義県の古道》竹崎三大古道−金獅古道−3
【写真説明】金獅古道初回で、現代古道は県道と複数箇所で交差すると書いたが、その複数箇所の中から三箇所を選んだ。右写真は最上段の交差箇所でここから本格的に金獅山頂上稜線への取り付きとなる。嘉義県道166号線は台湾で三番目に長い県道で、台湾海峡沿いの東石郷市街地を発し、阿里山山脈中の梅山郷瑞里まで登り詰め、総延長が80余`ある。山岳道路に変じる水道頭から瑞里の区間は特に瑞水公路と呼ばれている。試しに、大正13年(1924年)発行の5万分の一地形図とGoogle Mapを重ね合わせて、現代自動車道と古道の交差状態をみてみた。一つ気付いたのは現在国家歩道として整備された古道はどうも地形図上の旧道(緑色)から大きく外れていることである。先ず金獅山頂上を通過していないのだ。又、運搬用のケーブル軌道も書き込まれており、この軌道跡が現在の歩道に近い。。。という具合に興味は尽き無い。(続く)
2021年10月09日
《嘉義県の古道》竹崎三大古道−金獅古道−4
【写真説明】金獅山登頂のみが目的であれば古道が県道と最後に交差する部分から登り始めれば良いわけなのだが、その下段の交差地点も同じで、駐車スペースが無いのが苦しいところだ。結局、古道入口の廣福宮の駐車場が最も簡便と云うことになる。前回投稿記事の左写真に写っているように、最上段の交差点から山頂までの距離は僅かに600b、左写真は途中の景観、中央写真は頂上直下、右写真は頂上のベンチと三角点頭が辛うじて確認出来る様。金獅古道最初の稿で紹介した大パノラマはここに埋め込んでおいた。同写真右端の山が大坑山(標高1,026b、地籍三等)である。(終り)
2021年10月16日
《嘉義県の古道》竹崎三大古道−金獅古道−5(金獅寮造紙寮)
【写真説明】蛇行を繰り返す県道166号線上には幾つもショートカット用の道路が付けられているがあくまで地元民のものである。金獅古道の廣福宮からもその一つが設けられているが、廟堂の駐車場から少しだけ入り込んだ場所に、古紙工房跡が公園として整備され一般人に開放されている。左写真にあるように、二枚の説明板があり、右側の案内板は「金獅寮−林家造紙寮(製紙工房)」と題し保存遺構の概観、左側は具体的な古紙製造方法が紹介されている。以下は右側の概観説明板の全訳である(原文は中文のみ):
「清末、中華民国成立初期は竹を原料とした産業が盛んになり、桂竹(台湾桂竹、タイワンマダケ)を利用した製紙業が本村の主要な生業(なりわい)となった。ここで製造される紙は粗紙であり、主な用途は祭祀用金子(きんす)や包装紙であり、全盛期には五十軒近くの製紙工房があった。1970年代になると手工業であるこの製紙法は、機械化に依る安価な大量生産には敵うべくもなく、伝統産業として没落してしまった。
林家の製紙工房は本村で最も完全に保存されている。一年生の竹が葉を付ける前に4.6尺の長さに切り揃えられ、更に細かく縦割りにした竹を束ねた上で、消石灰を加え「竹礐仔」(漬竹石槽)に四箇月浸けられ、その後更に真水に交換、竹の繊維が十分に柔らかくなったものを次の製紙工程で用いた。」
左側説明板は、製紙八工程を各々漢字一字で順に「輾」、「攪」、「入」、「撈」、「壓」、「開」、「晒」、「成」と代表させこれら製紙八工程の詳細を紹介している。左写真の歯車は第一工程「輾」に、中央写真は「攪」用か?(終り)
2021年10月23日
《嘉義県の古道》大坑山古道(竹崎郷)
【写真説明】左写真は大坑古道の入口。場所に関してはこのダイヤグラムを参照にして欲しい。中央写真は古道途中から大坑山を望んだ。今はマニアックなハイカーしか登らない。右は古道最上段の凌雲巌の境内。
台湾に大坑、或いは大坑山と云う地名は多い。「坑」は台湾語音訳で、河の傍、即ち谷を意味するようだ。この投稿のタイトルを大坑古道としたが通常は大坑山歩道という表記が一般的で、竹崎市街地にも古びた道路標識が良く目に付くので、昔から人口に膾炙しているのだと思う。にも拘らず筆者が現地に赴いたのは今年の春節になってからで、余り気乗りしなかったのは本当の意味での古道かどうか甚だ疑問だったからだ。ところが、この稿を起こすに当たりネットを渉猟していると、大坑山歩道を整備した際の記事があり、「数ある竹崎地区の古道の中でも塘湖古道と大坑古道が最も古い」と云う紹介に当たった。他方、日本時代の地形図を見てみると、相当する位置に道路が見当たらない。
いずれにしても、現在この地をポピュラーな観光スポットとしているのは、2,763段の階段である。これが歩道そのものである。竹崎郷文峰村大坑庄王厝の小村から凌雲巌と呼ばれる廟堂までを繋いでいる約2`の階段である。その落差600b、健脚だと40分程度で登り切れるという紹介がサイト上では目立つが、落差は実際その半分も無い。さもなくば40分では登り切れない。廟堂の創建が1964年、従って歩道は古道と言うより王厝からのショートカットと云う性格が強い。自動車道も付いており、同じ区間延々6`辿る必要がある。3,000段弱の階段と云うのは運動不足の方には堪えると思う。筆者にとり発見は先の投稿でも記したが、竹崎地区の古(いにしえ)の開拓民の艱難辛苦だ。今は舗装された自動車道がこれでもかこれでもかと云う具合に奥迄で入り込んでいるのだが、ぐんぐん高度を稼ぎながら狭く谷に張り出し、筆者の運転技術では大いに問題有りだ。(終り)
2021年10月30日
《嘉義県の古道》水水古道(竹崎郷)
【写真説明】今日は筆者の63回目の誕生日である。手元の市販地図を眺めていたら、大坑山古道の更に東側に「水水古道」と云う表記があるのに気付いた。地図を見る限り、水道から凌雲巌へ辿る産業道路途中からその古道の西側起点に入り込めそうだった。その産業道路との三叉路には凌雲巌と刻まれた石碑が建っている(左写真)のだが、そこから水水古道起点まで通じていると思われる車道(同写真右側)は余りにも狭い。そこで古道東側起点である阿里山森林鉄道、水社寮駅(右写真)からのアクセスが便利そうだったので、日を改めて出直すことにした。水社寮駅は前稿で紹介した獨立山駅よりも更に阿里山側の駅である。日本時代は水車寮だった。水社寮駅迄辿り着けば、水水古道起点は自明であろうと予想していたが、然にあらず。替わりに、四大天王山歩道(中央写真)に出食わした。当初、この歩道イコール水水古道ではないかと考えていたが、直ぐに異なる山道であることが判った。先の歩道は、四天王山(1,458b)、知鳥山(1,445b)、青園山(1,437b)、篤鼻山(1,422b)の4座の稜線を貫き、阿里山森林鉄道のもう一つ嘉義側の交力坪駅とを結んでいる。これら四座を四大天王山と総称しているようにも見受けられるが、四天王も四大天も同義語だ。日本では前者が一般的、台湾では後者だと思う。東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天である。埋め込んだ写真は凌雲巌に至る車道上に掛かった仁聡橋の袂から撮影したもの。恐らく快適な縦走コースと想像されるが、時間の関係で四天王山頂上まで至り引き返した。水水古道と四大天王山とは水社寮歩道と駅から程遠からぬ所で交差しているはずなのだが、交差点は判然とせず。ところで、「水水」とは、先に竹崎三大古道の番外編として紹介した水道と水社寮の頭(かしら)を取り命名したものだ。詰り、水道から大坑山古道に繋がる現在の産業道路はそのまま古道ということになる。(終り)