2019年01月05日
『水の古道』后里[土/川]−12
【写真説明】「后里圳」カテゴリーの最後を「鉄の道」で締めて新年の挨拶に替えたい。日本時代起工の台湾鉄道旧山線大安渓鉄橋(左、中央写真)は、泰安鉄道文化園区の定番アトラクションである。旧泰安駅から線路伝いに歩いて行けるし、高所恐怖症で無ければ、鉄柵を乗り越え鉄橋を歩きながら、先人の偉業に思い至すことも出来る。鉄橋上から望む大安渓の河原の拡がりは絶景だ(右写真)。1903年(明治36年)起工、1908年(明治41年)竣工、「下承式曲弦桁梁」構造(下路式曲弦ワーレントラス鋼橋:通称「花梁」)、全長637メートル、1935年(昭和10年)の新竹台中大地震、戦後1963年の改建を経るが外観は日本時代の竣工時と殆ど変わっていないと謂われる。台中市指定古蹟。同構造の古蹟指定鉄橋は、他に大甲渓鉄橋(大甲渓:台中市豊原区/后里区)、下淡水鉄橋(高屏渓:高雄市/屏東市)の二架のみ。
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2019年01月12日
関山越嶺古道−15
【写真説明】関山越嶺警備道の起点、台東県関山鎮は全国唯一人口が1万人に満たない鎮と云う汚名を被っているようだが、台湾東海岸南部の大都市、活気に溢れていると筆者は思う。但し、筆者が車を降りて街中を散策するのは今回が初めてであった。台湾鉄道の駅舎(左写真)が日本時代のものと云う知見はあったが、実際初対面、何時の間にか新駅舎が開業しており、真向かいの新装復元の駅長舎と併せ旧駅舎は古蹟扱いだった。東海岸では例外では無いのだが、町中至る所で日本時代の家屋にお目に掛かれるが、恐らくこれ程の規模の日本家屋のコレクションは無いだろうと唸ってしまったのは、旧駅舎と省道20号線を隔て中山路越しに向かい合う関山警察署(正式には「台東県警察局関山分局」)付属の「警察史蹟館」(「関警史蹟文物館」)である。小さな別棟の付属博物館紛いの建屋を想像していたら、警察署ビルの後方は日本庭園(日本時代からあったはず:中央写真)になっており、その後ろは日本時代から受け継がれ現在も多くの棟が居住中の官舎群(右写真)であった。
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2019年01月19日
関山越嶺古道−16
【写真説明】初来(逢坂)―利稲(リト)間の新武路渓谷の美観はタロコ渓谷に匹敵すると書いたことがあるが、渓谷沿いに温泉が湧き出ていることには不注意であった。今回初めて気付いた次第。下馬(エバコ)と天龍ホテル(ブルブル)間の南横沿道に多くの車が停められていたので、何事かと思ったら、沿道渓谷側に足だけ浸ける温泉施設が設けてあった。名付けて「六口温泉」(左写真)、中央写真はその向い側の渓谷岩盤、硫黄で変色している。この温泉はほんの一例である。下馬は小さいブヌン族の村で、そんな村とはアンバランスな極彩色の「下馬温泉民宿」の建物が南横脇を占拠している(右写真は建屋の一角のペイント)のだが、冬場に拘わらず休業、或いは倒産状態。元々この温泉宿を目指したわけではなく、南横を隔ててこの民宿の向い側にある、南横道路工事関係者が主たる客人である民宿があり、それら客人の賄をしている女性が、今回我々の嘉明湖行の同じブヌン族のポーターの高校時代の同級生と云うことで、訪ねて行った。二十年振りの再開と云うことで、このポーターの男性、相当興奮していたと思う。彼らは南投ブヌン族、女性が働いているのは台東ブヌン族の村、筆者は中央山脈を越えたブヌン族の往来に驚いたのだが、後で珍しいケースでは無いことを知った。いづれにしても、下馬を紹介する題材として温泉を使った。(続く)
2019年01月26日
関山越嶺古道−17
【写真説明】台東県海端郷の中では最大の行政区画を擁するリト(利稲)村(左写真)は70戸、500人程度、新武路渓の支流である利稲渓の河岸段丘(その為、利稲台地と云う呼称を見たことがある)上に集落、原住民族の部落としては規模が大きいと思う。筆者が何を以て規模が大きいかと言うと、乗用車が余裕を持って擦れ違える幅を持った目抜き通り(中央写真は部落を東西に走る道路)があることだ。過去何度か立ち寄ったことがあり、村の西端にある小学校(霧鹿国民小学校利稲分校)の校庭で露営したこともあるが、部落の中を子細に歩いたことは無かった。嘉明湖行きを諦めたので、今回当地に二泊した。『台灣全覧』に依ると、マテングル(摩天)から下って来た関山越嶺古道は部落上方の南横公路を横切り、丁度派出所(関山分局利稲派出所)辺りに降りて来ているので、その痕跡を探してみることにした。リト―マテングル間の古道と南横との関係はこの概念図を参照すると判り易い。右写真は小学校付近から東方向の風景。(続く)