2011年05月07日
能高越嶺古道−25:精英村平静(2)
【写真説明】前回の記事で紹介した大同村と精英村+合作村の境界部分の濁水渓に何本の橋が掛かっているのか?は私は知らない。写真は実は平静部落ではなく、お隣の平和部落と対岸を結ぶ吊橋だ。対岸に渡り坂を詰めれば最後は清境農場方面に行き当たる。日本統治時代から、両岸のセデック族は吊橋を介し行き来きしていたようだが、それは日本人がそうさせたのだと思わざるを得ない程に谷は深い。何故、今回は吊橋の写真を持ち出したのかは、本文を参照願いたい。中央写真は現在の吊橋の遥か下に掛かる今は廃棄された旧橋で、日本時代にも同じ場所に掛かっていたかもしれない。濁水渓の水は実に鮮烈!
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2011年05月14日
能高越嶺古道−26:精英村平和
【写真説明】平和部落、ルクダヤ社は、平静部落から北へ2キロ弱の場所にある。左写真は部落の俯瞰、奥に写る立派な峰を持つ濁水渓対岸の山はそのものズバリ、三角峰(標高2,376メートル)、日本時代からそう呼ばれていた。合歓山に至る現在の中部横貫公路(中横)霧社支線はこの三角峰の西側、同写真に写る峰の向こう側を巻いている。同峰南面下は嘗て「追分」駐在所が置かれていた場所で、現在は翠峰と改称され同場所に派出所がある小さな村を形成している。右写真はルクダヤ社内で見掛けた「高脚屋」(のはず)、日本だと高床ということになろうか?以前大安渓沿いのタイヤル族の村々で目撃したことのあるのは観光客を意識した複製だったが、このルクダヤ社のものは現役の倉庫である。「北坑渓古道−6」に掲載した写真と記事を参照にして欲しい。ここのオリジナルの集落は霧社事件後、他所に強制移遷させられている。(続く)
2011年05月21日
能高越嶺古道−27:合作村平生
【写真説明】タロコ族最古の村と言われるのが、トルワン社、平生部落である。つまり今現在花蓮県側で最大勢力となっているタロコ族の発祥地は、この南投県仁愛郷合作村最奥付近の地だという意味だ。中央山脈を越え勢力を伸張、やがて佐久間左馬太と対峙するあのタロコ族である。左写真はトルワン社内の一人家。
右写真は合作産業道路脇にある「太陽を射る」像である。「徳鹿湾」はこの集落の現代台湾の漢音訳である。像下には以下の説明プレートが嵌めこまれている。筆者拙訳である:
「伝説に依ると、嘗て二個の太陽、二個の月が同時に出現した。一人の壮年の父親が青年になった息子とまだ少年の息子二人を伴い、太陽退治に出掛けた。父親は目的を果たすことなく死んでしまった。青年だった息子の方はやがて壮年になり、一個の太陽と一個の月を退治し、且つ、もう一個の月に傷を負わせることに成功した。つまり、昼間に輝く太陽と夜に輝く月はこのようにして誕生した。その太陽と月とを射落すことに成功した息子は帰郷の途中、死んでしまった。父親が太陽退治に出掛けた折、まだ少年だったもう一人の息子はこの間、青年を経て父親と同じ壮年になっていたが、最後に故郷に辿り着いた時は、白髪の老人になっていた。」(続く)
2011年05月28日
能高越嶺古道−28:合作村静観(1)
【写真説明】左写真は静観部落の入口に立つ指導標。二つ、或いは、三つ(左から、Sadu、Truku、Busiq)の部落名が記されているが、今回の記事を書くに当たって色々調べやっと「解読」出来たと思う。中央写真は、部落全体を撮影した積りでいたが、静観部落内の最大集落、サード。右写真は合作産業道路の実質的な終点、合作国民小学校の校庭。サード集落のドン突きである。
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