2010年01月02日
関山越嶺古道−10
明けましておめでとうございます。本拙ブログは足掛け五年目を迎えました。本年も何卒ご愛顧いただけるよう宜しくお願い致します。2010年の最初の記事は昨年からの関山越嶺古道の継続ですが、今回掲載した写真三枚の内、中央写真の古道残存状態は、私がこれまで見た中では、嘗ての警備道とそれをベースに建設された現代自動車道との関係を実に明確に切り取って見せているという点では台湾隋一の部分だと思います。
【写真説明】向陽山大崩壊直下に掛かる雲海橋。その雲海橋の下から現在の南横東段に沿う形で古道が残存しており、場所によっては車を停めてその古道に降り立てる場所もある。断崖絶壁面に心細い感じで開鑿された様子がよく判る。右写真は、[土亜]口派出所裏に残る日本時代の渓頭駐在所跡、最高点から東側の警備道はこの写真地点に下りて来ていた。
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2010年01月09日
関山越嶺古道−11
【写真説明】左写真は天龍温泉ホテル横に掛かる天龍吊橋、新武呂渓右岸側。ホテル前の広場・駐車場は日本時代には原住民に対する監視哨が置かれており、警備道も現在と同じ地点に吊橋が掛かり左岸に渡っていた。今に見る橋柱は戦後掛け替えたもの。この吊橋を対岸に向かって渡り出すと、左手に古道が延びているのが確認できる。それが左から二枚目の写真。但し、橋の袂、樹木で覆われた部分は大きく崩壊しているので、この古道を歩くのは難しい。対岸に渡り切ると日本時代の架橋の際にはめ込まれ今でも残っている銘板二枚。右写真はその内、工事人を列記した銘板の拡大。
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2010年01月16日
関山越嶺古道−12
【写真説明】南横は天龍ホテルを過ぎても新武呂渓右岸を遡り大きく迂回して左岸に移り高度を稼いでいき、やがて再び同ホテルより約三百メートル高い場所に出る。その南横脇に立つホテルの看板。この看板からそのままホテルへ降りる歩道が付いている。それが「古道」なのだが、日本人が開削した警備道ではなく、ブヌン族の連絡道だ。中央写真はその古道の様子。右写真は、古道途中から、天龍ホテル(同写真下)と旧プルプル社、現在の霧鹿を俯瞰したもの。同写真中央やや上に背の高い白い建物が見えるがその建物が集中している線を右側に辿ると小山が見える。そこが嘗て砲台が置かれていた場所。
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2010年01月23日
関山越嶺古道−13
【写真説明】現在の台東県海端郷霧鹿、旧プルプル社内には「霧鹿砲台記念公園」が設えてある。左写真は、日本時代に砲台が築かれていた小山。その手前は上水道施設だが、日本時代は駐在所が立っていた場所。左から二番目の写真はその砲台跡から霧鹿国民小学校越しに望むプルプル社全景。同写真奥の山々は新武呂渓谷。三枚目の写真は、公園に置かれた砲門。右写真は同公園内で見付けた「昭和三年六月」の銘を持つ石碑、「南無阿弥陀仏」の「(阿)弥陀仏」の部分だが、「南無(阿)」の部分は切断されてその横に並べて立ててあった。用途、経緯は不明。
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