2009年01月03日
『水の古道』竹仔門発電所(2)
【写真説明】左写真は発電所本館外観。二枚目の写真は避雷針、前回ブログでも触れたが建立当初からのものだと思う。三枚目写真は発電所内部、水車と発電機。発電所側の説明ではドイツ製でいまだに現役。同時期、茨城県に設置された石岡第一発電所の設計・建設に関わった日立製作所の創業者、小平浪平は日本自前の発電技術に拘ったようだが、発電所核心部のこれら水車・発電機は外国製に頼らざるを得なかった。左写真は、圧力水管上部の堰堤、この構造を専門用語で何と呼ぶのかは判らない。同写真奥に僅かだが極彩色の小さな祠が写っている。土地公で、発電所建設後地元の人によって設えられたもののはずだ。日本風に言えば水神様である。これとは別に構内には神社も作られたが今はその遺構は階段のみ、筆者は実はその位置は未確認。この外、圧力水管に加え沈砂池、水槽等と思われる発電所の上部構造を撮影した写真も持ち合わせているが、私自身が専門家ではなくうまく説明出来ないのと、それらの解説はこのブログの主旨ではないので割愛した。ご興味のある方は遠慮なく申し出ていただければそれらの写真を喜んで提供する所存である。
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2009年01月10日
『水の古道』竹仔門発電所(3)
【写真説明】竹仔門発電所構内には、発電所構造以外にも幾つかの日本時代の遺構が残る。防空壕もその一つである。その中で四基の石碑は代表的なものであろう。左写真は、発電所入口に繋がる道路脇に残る竣工記念碑、国定古蹟指定以前(当時は国家三級古蹟)は、刻まれた文字には塗料は施されていなかったが、指定後、黒塗りされた。更に、この碑が国定古蹟の一部を為すことが表示された。以前はこれが竣工記念碑などとは誰も気に留めなかったであろう。発電所構外にあるので持ち去り自分の家の庭石にすることさえ出来たはずである。それがいまだにこうして残っているところが台湾人の人の良さというより、地元の人がよくよく竹仔門発電所の存在意義を了解していたからだと思う。右写真は構内に今でも残る日本人三人の殉職碑。三人の殉職の原因は三人三様である。即ち、感電死(1910年・明治43年)、風邪をこじらせ病死(1927年・昭和2年)、取水池で作業中に転落、溺死(1937年・昭和12年)。
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2009年01月17日
蘇花古道−1
【写真説明】清朝羅大春提督に依る蘇澳-花蓮間道路開鑿に纏わる碑は三基が現存している。台湾鉄路蘇澳駅横のアーケード街に隣接する晋安宮。ここにはその内二基、「北路里程碑」或いは「羅提督里程碑」と通称されるものと「羅提督義学碑」、もともとは別々な場所に建立されていたものだ。前者には、蘇澳を起点とし花蓮までの各マイルストーン地点の距離が刻まれている。右写真はその拡大図。国、県等に依る古蹟指定にはいまだなっていないようだが、盗難防止の為か、石碑背面をご丁寧に壁に接着させてある。筆者はオリジナルの蘇花古道開鑿に関わる第一級の古蹟と考えているので古蹟をこのように取り扱っていいものか?と疑問を感じるのだが、他方、このように屋根付きで守り地元の人の信仰の対象になっているので、寧ろ石碑にとってはその方が有り難いのかもしれないとも思う。
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2009年01月24日
蘇花古道−2
【写真説明】道路開鑿に伴い設営された営盤(この場合は、羅大春提督駐留軍駐屯地)は古道沿線各所に残存するが、古蹟指定等の保存活動は筆者の見た限りでは一切なされていないので、写真で見るように、普通の石壁、石垣と区別が付かない。左、中央写真は住居の一部になって残存している例(宜蘭県員山付近)、右写真は道路脇の石垣として利用され残存している例(花蓮県新城付近)である。中央写真の石組みは「人」の字型と表現されるが清代営盤石組みの特徴だそうだ。
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2009年01月31日
蘇花古道−3
【写真説明】清水断崖に代表される、太平洋の荒波が洗う台湾東海岸の絶壁を貫いて走る蘇花公路(省道9号線)の前身は、日本時代に建設されたものである。戦後、本格的な自動車道化が進められる過程で、安全確保の為、従来の道路を出来る限り海岸から離し山側へ寄せる工事が為されてきた。その為、もともとは日本時代に開鑿された部分が写真で見られるように残ることになる。写真は現在の蘇花公路174キロ付近にある錦文トンネル(戦後清水断崖付近の工事で殉職した呉錦文氏に因んだもの)横に残る旧道の様子である。
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