2021年10月16日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−金獅古道−5(金獅寮造紙寮)

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【写真説明】蛇行を繰り返す県道166号線上には幾つもショートカット用の道路が付けられているがあくまで地元民のものである。金獅古道の廣福宮からもその一つが設けられているが、廟堂の駐車場から少しだけ入り込んだ場所に、古紙工房跡が公園として整備され一般人に開放されている。左写真にあるように、二枚の説明板があり、右側の案内板は「金獅寮−林家造紙寮(製紙工房)」と題し保存遺構の概観、左側は具体的な古紙製造方法が紹介されている。以下は右側の概観説明板の全訳である(原文は中文のみ):

「清末、中華民国成立初期は竹を原料とした産業が盛んになり、桂竹(台湾桂竹、タイワンマダケ)を利用した製紙業が本村の主要な生業(なりわい)となった。ここで製造される紙は粗紙であり、主な用途は祭祀用金子(きんす)や包装紙であり、全盛期には五十軒近くの製紙工房があった。1970年代になると手工業であるこの製紙法は、機械化に依る安価な大量生産には敵うべくもなく、伝統産業として没落してしまった。

林家の製紙工房は本村で最も完全に保存されている。一年生の竹が葉を付ける前に4.6尺の長さに切り揃えられ、更に細かく縦割りにした竹を束ねた上で、消石灰を加え「竹礐仔」(漬竹石槽)に四箇月浸けられ、その後更に真水に交換、竹の繊維が十分に柔らかくなったものを次の製紙工程で用いた。」

左側説明板は、製紙八工程を各々漢字一字で順に「輾」、「攪」、「入」、「撈」、「壓」、「開」、「晒」、「成」と代表させこれら製紙八工程の詳細を紹介している。左写真の歯車は第一工程「輾」に、中央写真は「攪」用か?(終り)
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2021年10月09日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−金獅古道−4

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【写真説明】金獅山登頂のみが目的であれば古道が県道と最後に交差する部分から登り始めれば良いわけなのだが、その下段の交差地点も同じで、駐車スペースが無いのが苦しいところだ。結局、古道入口の廣福宮の駐車場が最も簡便と云うことになる。前回投稿記事の左写真に写っているように、最上段の交差点から山頂までの距離は僅かに600b、左写真は途中の景観、中央写真は頂上直下、右写真は頂上のベンチと三角点頭が辛うじて確認出来る様。金獅古道最初の稿で紹介した大パノラマはここに埋め込んでおいた。同写真右端の山が大坑山(標高1,026b、地籍三等)である。(終り)
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2021年10月02日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−金獅古道−3

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【写真説明】金獅古道初回で、現代古道は県道と複数箇所で交差すると書いたが、その複数箇所の中から三箇所を選んだ。右写真は最上段の交差箇所でここから本格的に金獅山頂上稜線への取り付きとなる。嘉義県道166号線は台湾で三番目に長い県道で、台湾海峡沿いの東石郷市街地を発し、阿里山山脈中の梅山郷瑞里まで登り詰め、総延長が80余`ある。山岳道路に変じる水道頭から瑞里の区間は特に瑞水公路と呼ばれている。試しに、大正13年(1924年)発行の5万分の一地形図とGoogle Mapを重ね合わせて、現代自動車道と古道の交差状態をみてみた。一つ気付いたのは現在国家歩道として整備された古道はどうも地形図上の旧道(緑色)から大きく外れていることである。先ず金獅山頂上を通過していないのだ。又、運搬用のケーブル軌道も書き込まれており、この軌道跡が現在の歩道に近い。。。という具合に興味は尽き無い。(続く)
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2021年09月25日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−金獅古道−2

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【写真説明】今回は古道の香り高き地点を多少大判の写真で紹介する。(続く)
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2021年09月18日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−金獅古道−1

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【写真説明】国家歩道系統の中では金獅村歩道と呼称される金獅古道は竹崎三大古道の中では最も良く整備され、又、古道足る香りが最も良く醸し出されている。歩道として整備されている部分の総延長は2`、この間の落差は600b弱、往復2〜2時間半程度の昇り降りになるので、ハイキングとしては一般ハイカーにも適当である。殊に、360度の視野を埋め尽くす茶畑の只中になる歩道の終点、金獅山(点名:芋蓁坑)頂上は標高927b、圧巻の展望である。現在の古道は途中五、六箇所で嘉義県道166号線と交差するのだが、このことは取りも直さず金獅古道は県道166号線に取って代わられた事を物語る。その県道は多数のヘアピンカーブを擁するのだが、最下段に属するその一つの脇に設えられた大振りの廟堂、廣福宮(上掲左・中央写真)が現代古道の起点となる。この廟堂を潜った先に国家歩道ゼロの里程標が立っている(右写真)。そこから始まる古道部分は下掲載写真のように古道の雰囲気を湛えるように良く工夫されている。(続く)
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2021年09月11日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−番外:「水道」

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【写真説明】前回投稿で三大古道の本来の共通起点であろうと筆者が考察する「水道」に関し少し触れることにする。現在の正式地名は嘉義県竹崎郷龍山村水道頭である。妻の実家から歩いて行ける距離である。ここには所謂老街がある。手元の地図帳には「水道頭老街」との記載がある。又、ネット上で「水道檜木老街」と云う呼称を目にした。通常老街という場合、市街地の中の繁華街に多く、日本時代の建築物が中心になるが、水道老街は延長百b程の県道166線脇の路地のイメージだ。その老街の一本道、つい最近まで歩いたことが無かったし、水道が冠せられた地名であることを知ったのは更に新しい。上掲の三枚は「水道」が実際に確認出来るバス停(左写真)、中央・右写真は老街の中で見掛けた「水道」の文字。下掲左写真は老街を西側入口から望んだもの。中央写真は老街東側入口から望んだ。同写真に写る土手は日本時代建造の牛稠渓左岸の堤防跡だと思われる。右写真は台湾自来水公司の竹崎浄水場(正式には「第五区管理処竹崎営運所」)脇に設営された阿里山国家風景区に属する文峰ビジターセンター、同写真に大きく写る山は大坑山(標高1,026b)、以前は良く登られていたらしいが、今は登山道は荒れ果てている模様。この大坑山に付いては後の投稿の中で触れる予定。(続く)
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2021年09月04日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−塘湖古道−2

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【写真説明】牛稠渓沿いの平坦地である阿抜泉から急坂を登り詰めた場所になる塘湖集落の三景。左写真は集落内の一家屋。中央写真は塘湖山頂上下面の農道、頂上への道標である布条(マーカー)が小枝から下がっている。右写真は塘湖山三角点(地籍四等)だが地形上の最高点からかなり下った農道脇にあり探すのに苦労した。しかも三角点も頭が殆ど土中に埋まっていた。頂上一帯に茶畑が拡がっていた。以上三枚に写る道、いづれが古道かは特定し辛い。(続く)
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2021年08月28日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−塘湖古道−1

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【写真説明】左写真は嘉義県郷道120号線上にある塘湖古道の指導標、その古さから地元では人口に膾炙した古道であることが察せられる。同写真中の緑の指導標上の「水道」は地名であるが、文字通り日本語の水道である。中央写真は古道途中にある福建坪の集落のメインストリート上の一家屋、謂れがありそうな地名だが、日本時代の地図にはこの地名の記載は無い。右写真は塘湖古道として林務局が整備した最上段の入口。尚、塘湖の「湖」とは池の意味では無く、筆者の記憶が正しければ、窪地、山中の平坦部を指す台湾語音訳のはずだ。
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2021年08月21日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−独立山古道

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【写真説明】林務局が独立山国家歩道(嘉義県竹崎郷公所発行の絵地図)と指定している歩道は、三区域に分けられており、阿里山森林鉄道樟脳寮駅と独立山駅とを結ぶ区間を独立山古道、独立山駅から更に山腹を北側に奉天岩と呼ばれる廟を経て更に北へと高度を稼ぐ区間を紅南坑古道、これら二つの分岐点東側、独立山山頂を含む区域に設けられた歩道を独立山歩道として古道と区別しているが、ハイカーにとってはこれらの区別は重要とは思えない。左写真は独立山山頂、2003年の撮影だが、無基点峰であることも手伝い非常に印象の乏しい山頂、山頂まで辿り着いたことも忘れていた。2017年撮影の中央・右写真は独立山駅、阿里山森林鉄道の駅の中で最も人口に膾炙した駅の一つだと思う。
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2021年08月14日

蘭嶼−23:鰭尾

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【写真説明】蘭嶼の最北端は尾鰭(おひれ)ならぬ鰭尾である。俯瞰図で判るようにその形状から点名となったのだと想像される。最南端の南岬角と同じく地籍三等三角点が埋定されているのを知ったのは三回目の上陸前である。鰭尾は標高200bの狭い断崖であり、日本時代創建の優美な灯台が建っている。今は正式には「財政部關税局蘭嶼燈塔」だ。ここも初回の上陸時に立ち寄っているのだが、青青草原より更に印象が薄い。当時撮影した写真が一枚だけ残っており(「蘭嶼−9」)筆者の微かな記憶を証明してくれた。灯台は一般開放されていないので三角点が敷地内にあることを心配したが、敷地外にありラッキーだと思った。左写真は灯台へ辿る自動車道途中から南側、蘭嶼の表玄関、椰油村(ヤユウ)開元港方面を望んだもの。中央写真は灯台南側に位置する小天池(蘭嶼の著名な観光スポットの一つ、大天池に対する。大天池については「蘭嶼−15」参照)から望んだ鰭尾。同写真左側上に灯台の頭部が写り込んでいる。大天池の方も初回上陸時のみ探訪したが、当然の如く水を湛えていた。小天池の存在を知ったのは三回目の上陸前だ。二つながら足を延ばしたが、今年前半の台湾の異常乾燥のせいでどちらも完全に涸れ果てていた。(終り)
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2021年08月07日

蘭嶼−22:南岬角(青青草原)

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【写真説明】先ずは青青草原から太平洋を眺望した三枚の写真を並べた。三回目の蘭嶼上陸に際し初めて目にした風景だった。青青草原(本ブログ左側メニュー「俯瞰図」の[1]及び[2]を参照)は蘭嶼への初回上陸の際には立ち寄った記憶があるが、ヤミ族青年漁師の立像(「蘭嶼−4」)を撮影しただけでそくさくと立ち去ったのみだと思う。しかも環島公路から僅かに入り込んだだけで、隆起したサンゴ礁上に載っかった草原が太平洋に突き出た海岸縁迄の歩行を大いに牽制したようだ。陽が昇ってしまえばその熱帯の陽射しを遮るものが何も無いので焼き殺されるような塩梅になるのが理由である。二回目上陸の際はそういうわけで青青草原へは脚を向けなかった。三回目はこの草原に入り込みそこに付けられた遊歩道を歩く十分な理由があった。一体この草原の中のどのような場所に三角点が埋定されているのか?という興味はそうそう簡単には失せない。草原の中に小山があるわけではない。但し、傾斜が付いており海岸側が少し高い。
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2021年07月31日

蘭嶼−21:大森山−4

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【写真説明】上掲三枚の写真は山頂稜線上の景観、各々植相が異なる。下掲左写真は陸測一等三角点埋定地点(標高483b)の景観、右写真は地籍三等三角点埋定地点(同480b)、両地点の距離は約70b、どちらも展望無し。(続く)
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2021年07月24日

蘭嶼−20:大森山−3

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【写真説明】ネット上には最近の山行記録が公開されていたので、組し易しと思い込んでいた。現地ガイドには当初再登となる紅頭山への登山をサポートして貰おうと考えていたが、大森山登山を相談すると彼自身登ったことが無いとの事。その後直ぐに彼は先ず自分で登攀を試み、往復6時間を要したと報告して来た。山頂稜線に出る前の登山道傾斜は殆ど90度だったと云うコメントを添えて。自力での登山も可能と考えていたが、最終的には大森山登山のサポートを依頼した第一の理由は、ヤミ族の禁忌地域に踏み込まないように用心した為である。結局登山道上にはそういう場所が無かったようだったが、現地ガイドを雇ったのは正解だった。登山の前日に簡単な打合せに来てくれたが、ほんの数日前に再登し登り1時間半程度だったと云うのを聞き胸をなでおろした。そして3時間あれば往復可能と踏んでいた。しかし実際はとんでも無い登山と相成った。登山口と山頂の落差は僅かに450b、登山道総延長は片道2.5`程度なのだが、最終的には往復6時間を要した。逆に下りに時間を費やす結果になったのは、標高150〜450b間の連続する急登、特に標高200〜250bと同400〜450bの二箇所が酷く、中でも後者はほぼ垂直の低木と茅の壁を這い上がる羽目となった。今回は山頂稜線まで最後の50bの登りの景観、左写真は青青草原俯瞰、中央写真は下方から、右写真は上方から撮影した最後の登り。筆者自身の登攀の様子も埋め込んでおいた。(続く)
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2021年07月17日

蘭嶼−19:大森山−2

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【写真説明】今回は登山口から半時間も歩かない内、まだ生態園区内で出会った巨木群を三枚並べた。尤も樹木の大きさを写真で表現するのは難しく筆者の技術では無理がある。精一杯努力している積りではいるとしか言い様が無い。又、生態園区を越えて山頂稜線に至る迄の急斜面で出会った樹木も三枚、この記事の最後に埋め込んだ。台湾テリトリー内の真の熱帯雨林を感じて欲しいと云う希望を込めているが。我々を大森山山頂まで引率してくれたガイドに依ると、左写真のこの地上根が大きく張り出した巨木は「台東番龍眼(樹)」、ウィキペディアを日本語に切り替えたら「マトア」、又は「タウン」と云うカタカナがでてきた。台湾観光の世界で三大果物はライチ(茘枝)、マンゴー(芒果)、龍眼と謂われるが、番龍眼も龍眼も同じムクロジ(無患子・木槵子)科である。「番」は恐らく「原」の意であると想像されるので山龍眼と言い換えられるかもしれない。フィリピン原産らしい。ウィキペディアに「別名ソロモンマホガニー。分類学的には高級木材として知られるマホガニー(センダン科)とは全く異なるが、比較的安価なこと、加工性に優れ腐食や磨耗に強いことや、木目や色調が似ていることなどより、マホガニーの代替材として住宅や家具に用いられる。」と云う部分がポイントである。
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2021年07月10日

蘭嶼−18:大森山−1

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【写真説明】左写真は蘭嶼の周回道路である環島公路を挟み青青草原の向い側に口を開けた大森山登山口への入口。同写真右側に木製の標示板が一部写り込んでいるが、「紅頭森林遊歩生態学園区」と記されている。この生態学園区入口が即ち大森山登山口なのだが、筆者の手元の市販地図には学園区の表記は無い。木製標示板は学園区名以外にも文字が記載されているが、長らく雨風に晒された為判読不能な箇所が多い。判読可能な部分には以下のような紹介が並ぶ(筆者拙訳):「現地の俗名は三條溝で三角山区に属する」;「重要な原生植物生長区」;「ヤミ族伝統の拼板舟専用樹種」;「蘭嶼島上、非常に貴重な生態保護園区」。これらの意味する所は追々説明する予定だ。大森山登山口イコール生態園区入口は左写真入口から僅かに辿った車道に掛かる忠愛橋袂にあり、そこから河床へ降りる部分が中央写真である。右写真はまだ生態園区内、登山道脇にある嘗ては屋根を頂いていたであろう東屋跡、行き当たった時咄嗟にヤミ族の祭場かと考えたのだが暫く眺めていて否定した。そこを過ぎると愈々熱帯雨林の世界となった。(続く)
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2021年07月03日

蘭嶼−17

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【写真説明】去る5月、2011年8月、2013年6月に続く、三回目の蘭嶼への上陸を果たした。初めて蘭嶼の地を踏んだ時には毎年行こう!と目標を定めたが叶わず、今頃になりやっと三回目になった。同島への渡航が日程的に制限されるのは、船便利用を前提にしての事である。一般的に4月初旬の清明節(中華圏のお盆と云う説明を聞く機会が多い)から9月の中秋節(十五夜)の間と謂れ、この期間を外してしまうと航空便しかないと云うことだ。毎回、目標とするものは異なる。最初は殆ど予備知識を纏わず渡航、どういう所なのか?先ずは初体験を楽しむこと。それに加え、本物の飛魚の飛翔を見ることにあった。度肝を抜かれたのは、持ち主は決まっているらしいが、野生化しているとしか思えないヤギの群れだった。離島する際、必ず登山対象になっている山があるはずだと踏み、次回の上陸の目標とした。二回目は目標通り、蘭嶼最高峰の紅頭山に登った。この山を選んだのは、最高点にして台湾小百岳の一座だったからだ。離島する際、次回はもっと登ろうと思った。三回目の上陸前の調査でこの周囲40`程度の島に20基の三角点があることが判り驚いた。最終的には、紅頭山への再登と大森山への登山をメインにして余った時間で出来る限り多くの三角点を確認することにした。大森山を選んだのは、紅頭山と同じく一等三角点が埋定されているからだ。この事実は、三回目の渡航前になり気付いたことだ。実は、見事な三角円錐形をした大森山の優美な山容は、既にこのカテゴリーの「蘭嶼−6 」と「&9」で、各々野銀(イワギヌ)部落からと蘭嶼測候所からの眺望を紹介済みだ。今回はこれら二回目の上陸の際同じく測候所からの大森山眺望を掲載した。この空の青さは正に墓場まで持っていきたいものだ。残念ながら三回目の蘭嶼滞在中に大森山山頂付近に雲の掛かっていない時間帯に当たらなかった。大森山西側になる青青草原越しの大森山パノラマも埋め込んでおいた。又、今回は大森山三角点に加え、蘭嶼南北端各々の三角点を紹介したい。(続く)

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2021年06月26日

清代八通関古道(中路)−9

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【写真説明】玉里神社は台湾内の神社遺構としては規模が大きく地方政府が保存・啓蒙に積極的に努めている好例だと思う。筆者自身は過去複数回訪れたことがあるので、今回卓渓山から下山した後殊更再訪してみようと云う気は強く無かった。何よりもこれまでの知見で清代、日本時代双方の八通関古道との関り合いは無いと見做していたからだ。ところが新ためて第一鳥居附近に立てられている案内板を読んでいたら、日本時代八通関古道と玉里神社、その第一鳥居の脇に控える「表忠碑」は繋がるのである。「表忠碑」、「玉里神社遺址」、序でに再訪した玉山国家公園南安ビジターセンターに安置してある「八通關越警備道路開鑿記念碑」(前出は「八通関古道−10」)の順にその各々の現場紹介文を以下訳出する。更に玉泉寺の創建は八通関越警備道路より後になるので、同道路沿いに鎮座していた可能性が高い。訳出した紹介文中の[ ]内は筆者註である:
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2021年06月19日

清代八通関古道(中路)−8

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【写真説明】協天宮と八通関古道との関係は「安通越嶺古道−2」でかなりのスペースを割いて紹介したが、実際協天宮を清代八通関古道の東側起点とするのが正しいかどうかは未だ判らない。但し、清代八通関古道、即ち明治7年(1874年)の牡丹社事件(征台の役、台湾事件、台湾出兵等々)以降清朝に依り開鑿された三本の台湾東西横断道の中の「中路」(「北路」=蘇花古道、「南路」=崑崙拗古道)の開鑿事実を証明する「後山保障」の扁額は国宝級である。今回訪問した際は協天宮の内外を各々一枚撮影してきたが生憎の雨天、外観は普通の廟堂なだけにくすんだ写真になり残念、思わず頭(こうべ)が垂れる、長さ240a、幅75a、厚み3aの「後山保障」扁額の写真は新たに撮り直したものである。本堂内に中・英・日文で書かれた花蓮県文化局に依る新しい案内板があったので、日本文紹介をそのままここに掲載する:

玉里協天宮の後山保障扁額は木製の扁額で、黒漆の地に金漆で、中央に楷書体で「後山保障」の四字、右に「光緒七年辛巳孟冬吉立」、左には「欽加總鎮銜總帶飛虎左營兼理中路招撫墾務福建即補協鎮府提督呉敬奉納」と彫られ、額縁には金龍の浮彫が施されています。清代・光緒元年(1875)、総兵呉光亮が飛虎将軍を率いて東西山道の工事を行い、璞石閣(現・玉里)に到達し、今の協天宮の所在地に駐留した時、関聖帝君(関羽)の分霊を携えてきた人がいたと伝えられています。光緒7年、後山(旧時の花蓮の別名)に疫病が起こります。呉光亮は関聖帝君に加護を願い、陣地に草葺きの廟を建て、像を作って祀り、「後山保障」の扁額を手書きにしたのが、協天宮の始まりといわれます。後の研究と扁額にある職名から、寄進者は弟の呉光忠であることが分かっています。「後山保障」の扁額は、今では協天宮の宝になっています。清朝末期の国家勢力が東台湾に入った歴史の証拠として、史的意義をもちます。(続く)
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2021年06月12日

清代八通関古道(中路)−7

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【写真説明】前回の投稿に掲載したダイヤグラムの清代古道路線は筆者手元の25,000分の一市販地図からの引き写しである。玉里市街地に入る前に玉泉寺(上掲左写真)後方に設けられた遊歩道を横切り、台北栄民総合病院玉里分院の正門に入った所で古道表示が終わっている。そこから玉里市街地内の協天宮までは筆者が任意に線を引き、清代八通關古道(中路)の東側起点とした。玉泉寺は昭和5年(1930年)の創建、明代末期に中国から台湾に渡って来た在家仏教の一つ斎教(さいきょう)の一派の斎堂(或るいは菜堂:日本語風に言えば道場、講堂に相当)が始まりとの由、玉里市街地区では協天宮と並ぶ由緒正しき廟堂である。
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2021年06月05日

清代八通関古道(中路)−6

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【写真説明】卓渓山頂上から清代古道は玉里の市街地へ北東の尾根伝いに下りて往く。今も熱血漢が辿っているような踏み跡があるのだが、筆者は駐車地点に戻るべく、古道が開鑿された尾根から北側に降りた。今回の踏査行で辿った古道部は僅かに2`程度に過ぎない。今後少なくとも卓渓山頂上から玉里市街地までの全段(ダイヤグラム参照)を踏査する機会はないだろう。左写真は筆者が今回踏査した古道の最期の段。中央写真は古道脇で見付けた碍子。日本時代のものかどうか判らないが、だとしたら何故、こういうものが存在するのか?興味は尽きない。右写真は古道と筆者が駐車地点に戻る為に辿った登山道との分岐地点。古道は同写真右側へ逸れて往く。(続く)
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2021年05月29日

清代八通関古道(中路)−5

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【写真説明】林務局所有と思われる老朽した頂上に立つ二階建ての小屋に関し、筆者が過去明確に看たことがあると記憶しているのは、西巒大山の同じく頂上に立つものである。卓渓山の小屋の脇には陸測二等三角点が埋定されているので本来見晴らしは良いはずである。これを単純に作業小屋兼宿泊所と呼んでもいいのかもしれないが、二階建てになっている意味をよくよく考えてみると、火の見櫓(ひのみやぐら)だと思う。但し、この小屋が建てられたのが日本時代かどうかは判らない。(続く)
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2021年05月22日

清代八通関古道(中路)−4

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【写真説明】清代古道の出会い三叉路から卓渓山頂上までの登山道も正真正銘の清代開鑿の古道のはずである。その間の標高差は約130b、半時間程度の歩き、左・中央写真がその間の古道景観である。やがて、嘗ては農園であったことを思わせる茅の藪に行き当たり二階建ての小屋が現れる。小屋は卓渓山頂上に建てられている。(続く)
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2021年05月15日

清代八通関古道(中路)−3

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【写真説明】清代八通関古道は古道自体が国定古蹟の筈だ。それで古道、即ち卓渓山と玉里山を結ぶ稜線上に出る間際はわくわくしたのだが、そこで見た物は左写真の三叉路を暗示した冴えないサインと踏み跡の乏しい山道だった。国定古蹟を示す標示板なぞを期待していたのが間違いだった。中央写真は三叉路に残っていた焚火趾、地元のブヌン族が狩猟途中で利用したものだと思われる。右写真は玉里山方面へ延びる清代古道。(続く)
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2021年05月08日

清代八通関古道(中路)−2

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【写真説明】卓渓山と玉里山を結ぶ稜線、詰り清代八通関古道の出会いまでは、コーヒー栽培農家(左写真)の貯水タンクから入り込んで行く(中央写真)のだが、何の標示板も無く布条(目印)が下がっているだけだ。この登山口の標高が830b、古道出会いが同1,000b、この間を1時間弱掛けて登った。右写真は古道出会い間近。(続く)
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2021年05月01日

清代八通関古道(中路)−1

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【写真説明】左写真は花蓮県玉里鎮と同卓渓郷の境界を形成する卓渓に掛かる卓渓一号橋の玉里鎮側に立っていた、2019年度卓渓郷合同クリスマスパーティーの案内板。卓渓郷は6村15部落から成る広大な行政区画で、主要居住民は巒社群ブヌン族である。その橋を渡ると車道(花蓮郷道70号線)は卓渓郷の行政中心である卓渓村(日本時代はバネタ社、台湾漢字標記では、馬根太、巴内大等)に属する卓渓郷公所(役場)に繋がる。中央写真は渡橋後直ぐのカーブ脇に設営されている広場で見掛けたブヌン族をテーマにしたオブジェ。同写真奥に写るブヌン族集合像は著名な「八部合音」(八部和音唱法)を表したものだと思う。右写真は同地点から登山目標である北東方向の山稜を望んだもの。二つの山峰の右側が玉里山(標高2,157b)方面、左側が卓渓山(同1,129b)、これら二座の山を繋ぐ稜線上に清代八通関古道(中路)が開鑿された。結局、雨の為、玉里山登山は諦め、卓渓山への登山のみに終わった。しかもこの山行当日も含めその前後で雨は止まず、その間、解像度の低い防水カメラに頼ったのでこのカテゴリーで掲載する写真の写り具合は貧しい。右写真の撮影地点とほぼ同一地点のグーグル・マップに依るスクリーンショットでは玉里山頂上まで取り込まれている。
[写真をクリックして拡大] 本文へ...
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2021年04月24日

壽山古道−24:大公陸橋

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【写真説明】古道ブログらしくこのカテゴリーの最期は「古道」で〆よう。

高雄捷運環状軽軌(略称「高雄軽軌」)は、日本語では「高雄ライトレール」と呼ばれる高雄市街地に新しく導入された路面電車である。2015年に開業したが、環状線としては未完成だ。通常の交通手段と言うより高雄市観光の目玉の一つと説明した方が良さそうである。前身は台湾鉄道高雄臨港線、日本時代は高雄港への引込み線、通称「濱線」である。嘗ては高雄市街地で最も栄えた哈瑪星(台湾語読みで「はません」)地区の再開発の梃入れとして高雄ライトレールを現在開業させている。筆者はレール・ファンではないので開業以来全く興味が湧かず乗らず仕舞いだったが、前回紹介した田町斎場跡の写真撮りに利用しようと思い立ち乗ってみた。ところが、今現在開業している区間が鼓山区役所駅までで、田町斎場までは未だかなりの距離がある。それで予てはバイク・自転車で往復している同通りをもう一つ手前の駅までテクテク歩いてみた、何か新しい物は発見出来ないだろうか?と期待して。鼓山路が大公路と交わる部分は西側はフラットであるが、東側は深く沈んでいると云う変則的な公差点になっている(左写真)。この公差点北側に高雄ライトレール文武聖殿駅が設えてある。ここまで歩いて引き返したら、交差点南脇に色が落ちてしまった金属の案内板(中央写真)が立っているのを発見した。その内容は筆者にとっては十分に目から鱗物であった。交差点の片方が深く沈んでいるのはそこにフラットな陸橋が架けられていたからだ。目的は、鉄道を跨がせる為だ。その陸橋は昭和11年(1934年)に開通、当時高雄市で最初の陸橋、加えて高雄市で最初の鉄筋コンクリート製の橋梁であったと説明されている。当時から陸橋を支えていたサンゴ石に依る土台が一部残存している(右写真)。ウィキペディア中文版ではこの高雄市一番が台湾一番との記述になっている。そして陸橋撤去が2012年。待てよ、筆者が台湾に起居し始めたのは2000年である。爾来この場所は数限りなく通過しているのに、この陸橋の記憶が無い!日常とはそういうものか?いずれにしても、新種の台湾古道である。(終り)
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2021年04月17日

壽山古道−23:田町斎場

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【写真説明】鼓山路は嘗て高雄市街地で最も賑わった、当時の寿町、湊町、新浜町から為る、今に謂う哈瑪星(台湾語読みで「はません」)地区を貫き、壽山東側山裾を北上、その西側(壽山側)に山下町、東側に堀江町、北野町、更に田町に相当する地区を遡る。既に紹介済みの浅野セメントは田町三丁目にあった。ここら辺りまでが当時の市街地と言えそうだ。従ってと謂うべきか、鼓山路の両側には日本時代の家屋が良く残っている。始終バイク、自転車で往復しているのだが、何時も何かしら新しい発見がある。旧浅野セメントの僅かに南側の鼓山路沿い東側に以前から気に掛かっていた、殆ど倒壊寸前の大振りの日本時代の家屋がある。その建築様式は独特のもので何に利用されていたか想像出来ずにいた。鉄板の塀で囲まれ中には入れないようになっているので、その内修復作業でも始まるのかと思っていた。文化部文化資産局のサイトに入っていたら偶々この家屋らしきものが登録されているのを見付けた。「斎場」と記載されている。昭和8年(1933年)竣工の高雄市指定の歴史建築だ。登録は2017年である。修復される前にボロボロの状態を撮影しようと思い立ち先日出掛けた。鉄板の塀に「田町斎場」と明記された紙が貼り付けてあった。鉄塀の隙間から中を覗くと修復に用いる煉瓦が運び込まれているのが確認出来る。斎場とはこの場合、葬儀場である。昭和12年の高雄市都市計画図を見ると「葬儀堂」の記載になっている。台湾では斎場とは言わず、殯儀舘が一般的である。戦後は永らく市場(いちば)として利用されて来たとウィキペディア中文版に解説があり、これはG博士の記憶と一致している。又、同解説の中に、台湾唯一の日本時代の葬儀場の遺構ともある。歴史建築指定から四年で修復工事に取り掛かれるのは速いと思う。前回紹介した「逍遥園」の場合は10年掛かっているのだが、土地・家屋の買収交渉に費やされているのだろうか?因みに、これも先に紹介した打狗水道量水器室遺構、古蹟指定は2004年、保護が加えられないまま15年以上が経過していることになる。(続く)
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2021年04月10日

壽山古道−22:打狗本願寺布教所

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【写真説明】旧本願寺布教所も旧金光教教会所と同じく壽山東側山裾、鼓山路から少しだけ入り込んだ場所に建設されている。場所は紹介済みの打狗水道量水器室遺構のある通りを二百b程北側に辿った地点である(左写真最奥のクリーム色のビル)。本願寺布教所の創建は明治39年(1906年)、往時の布教所施設の遺構は残留していない模様だが、当時の写真に写り込んだ布教所前の民家、或いは布教所施設の一部かもしれない家屋が現存している(中央写真)。古写真に写るその家屋は瓦が葺かれていないが、今に残るそれは瓦葺だ。驚くべきことに、いまだに居住されている(右写真)。筆者が現場を探し当てた時、その古建築を丸ごと取り込み支えるように囲っている追加された住居の前に老婆が椅子に座り若い男性とお喋りの最中だった。そこに割って入り、老婆に古い家屋の由縁を尋ねてみることはしなかった。日本語が話せるとしたら国語(台湾北京語)が話せる確立は低い。白壁のドアの上には小さな十字架が嵌め込まれていた。筆者自身は本願寺に関する知識はゼロである。日本全国の全ての本願寺が東西どちらかに分れていると勝手に想像していた。高雄の旧本願寺布教所はどちらだろうなどと思いながら、ウィキペディアを覗いてみて仰天し、筆者の細やかな疑問など吹っ飛んだ。宗教施設ではないが、昨年遅くに高雄市街地内にある、浄土真宗本願寺派(西本願寺)第22代門主大谷光瑞の台湾別邸「逍遥園」が一般公開された。高雄市の歴史建築に指定されてから10年が経っている。逍遥園の創建は昭和14年(1939年)。武漢肺炎渦中にあるので日本人観光客には未だ露出度が極めて低い新しいアトラクションだ。(続く)
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2021年04月03日

壽山古道−21:金光教打狗教会所

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【写真説明】三件の遺構の紹介を追加して「壽山」シリーズを閉じる積りでいたが、もう少し追加することにした。名山の誉高い壽山山中、その周辺共に土地公、廟堂、寺院が乱立している感がある。これらの多くの前身が日本時代に起源を持つのだろうと漠然と想像しており、その数の多さから逆に興味が削がれていた。が、実は日本時代まで遡れるものは案外少ないようである。旧高雄神社、今は忠烈祠に成り代わっているが、余りにも人口に膾炙しているのでここでの紹介は控える。又、その前身になる金刀比羅(金毘羅)神社跡も殆どの高雄人は知見があるとは思われないが、完全に排斥され今は何も残っていないのでこれも殊更取り上げない。高雄神社、金刀比羅神社以外の日本時代の遺構が残る宗教施設は実は二箇所しかない模様だ。その一つが今回の金光教打狗教会所遺構である。高雄市動物園への登り口は鼓山路沿いに南北二箇所あるが、当該地は南側登り口脇である。普段素通りしながら何かしら古色芬々とさせている場所なので気にはなっていたので、グーグル・マップで位置を特定出来た時はやはりそうかと思ったものだ。明治44年(1911年)創建。左写真はそのまま残る当時の教会所主要施設(本殿と呼ぶべきか?)に至る階段。中央写真はその階段を登り切った地点で今はバトミントン・コートになっている。右写真は左写真の階段に至る手前の民家の門口に無造作に置かれていた宝珠。金光教は黒住教、天理教と並ぶ幕末三大新宗教なので、新興宗教と雖も歴史は古い。(続く)
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2021年03月27日

壽山古道−20:西子湾蒋介石行館

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【写真説明】蒋介石行館、略して蒋公行館は台湾に三十余箇所あるそうだ。蒋介石の別邸、別荘、招待所等に使われた。国立中山大学内に残る蒋公行館は西子湾行館と通称され高雄市指定古蹟だ。文化部文化資産局登録名は本投稿のタイトル通りである。更に現在は「西湾芸廊」として中山大学の管理下にある(左写真)。西子湾ギャラリーとでも訳せようか?様々な文化活動の場を提供しているはずだ。筆者自身は蒋介石並びに、殆ど日本時代の建物・施設を接収し蒋公行館として仕立て直された建築物群に興味があるわけではない。従って、中山大学構内のそれも初めて今月になり出掛けてみた。建物全体を鉄骨スレートが覆い修復工事を待っているのか(中央写真)、閉鎖されていた。中山大学敷地が日本時代、並びに、中山大学キャンパスとして選定された1979年までの間、何に利用されていたのか?少しネットを渉猟してみたが判らず。終戦直前に米軍が作成した地形図で同地を見ても建物群で覆われているが、軍病院(Military Hospital)以外の記載が無いので軍事施設と想像され、四子湾行館も軍司令部等の建屋が前身だったと勝手に想像していた。これは強ち間違った想像とも言えない。大学構内には日本時代の軍事施設遺構が点在しているからである。ところが最近になり、実際は昭和10年(1935年)に挙行された「始政四十周年記念台湾博覧会」の際竣工させた「高雄観光館」が前身であることを知り俄然興味が湧いた。そこでこれも竣工当時から軍事施設と思い込んでいた西子湾隧道(歴史建築指定、文化資産局登録名は「西子湾隧道及其防空設施」)(写真は隧道の中山大学側出入口間近に建設された「堡塁」の案内板が附された大防空壁)を徒歩で潜り中山大学のキャンパスを観光館まで出掛けたわけだ。日本時代、「壽山洞」と呼ばれた全長260bのトンネルは、元々は西子湾海水浴場へのショートカットを目的に壽山記念公園の一部として昭和2年(1928年)に完工した。大東亜戦争の深化に伴い防空施設が追加された。2017年になりこれら日本時代構築の防空施設は軍事遺址として一般開放され観光客を集めている。尚、右写真は西子湾行館正面玄関脇に展示されているPackard製蒋介石のお召車のようだ。(続く)
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